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名古屋城跡
登城日:(2000.05.28)
所在地: 名古屋市中区本丸
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
本丸御殿跡越しの天守閣です。 名古屋城は、関ヶ原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長十四年(1609)江戸幕府の東海道の要所として、また、大坂(大阪)方への備えとして、清須(現清洲町)から名古屋へ遷府を決定し、加藤清正・福島正則・前田利光等北国・西国の諸大名20名に普請を命じ、天守閣や諸櫓の作事は、慶長十七年(1612)にほぼ完成した代表的な平城です。その後、明治維新をむかえるまで名古屋城は、徳川御三家の筆頭尾張家の居城として栄えました。
第二次世界大戦中の昭和二十年(1945)5月、名古屋空襲の際、大・小天守閣、本丸御殿はじめ建物のほとんどを焼失しましたが、幸いにも焼失をまぬがれた三つの櫓(西北・西南・東南)、三つの門(表二之門、旧二之丸東二之門、二之丸大手二之門)と本丸御殿障壁画の大部分は、重要文化財として現在に伝えられています。

◆西南隅櫓
古くは未申櫓ともいわれ屋根二層、内部三階の櫓である。
外部に面した西・南両面には軍事用の「落狭間」(石落とし)を張り出して屋根は千鳥破風にし擬装している。
この櫓は、濃尾大地震で石垣と共に崩壊したが、大正十二年(1923)宮内省によって修理復旧され、鬼瓦などに菊花紋が見られる。
名古屋城全容です。 ◆西北隅櫓<重要文化財>
別名を戌亥隅櫓とも清須櫓ともいう。屋根三層、内部三階で、最上層は入母屋造り本瓦葺で、清須城の古材を多く用いて建てられた。
一階の外壁の西面・北面に出張った落狭間(石落とし)を設け、屋根を千鳥破風にし擬装している。現存する他の隅櫓と違って、内側の東面・南面にも千鳥破風を設け荘重で安定感がある。

◆剣塀
大天守閣と小天守閣を連絡する橋台は、石垣を築き左右両側に土塀を設けて通路の防備とし、さらに外部の面する西側には軒桁に三十センチメートル余の槍の穂先を並べて忍返しとして外敵に備えた。
剣塀は大天守閣に東接する「不明門」にも見られる。
やけにガイジンさんが群がってた加藤清正公。
◆鵜の首
西之丸・御深井丸など郭の接するところに防衛上から入り込んだ堀を設けている。
これを「鵜の首」という。
本丸を巡って「鵜の首」と呼ばれる箇所は五ヶ所残っている。

『名古屋城跡案内板』より

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資料
 

私見
剣塀。良く見ると忍返しがあります。 ようやく城らしい城跡です。天守にエレベータがついてるのは御愛敬ですけど見事な石垣と堀は充分すぎる見事さですね。前田利常、加藤清正、池田輝政、福島正則、毛利秀就ら西国大名の力はこの城を築城するために大部分が費やされたことでしょう。
石垣は美しい勾配を見せており、加藤流三日月石垣といわれています。しかし、実際は加藤清正が自ら指揮をとったのではなくて、小堀遠州が作事奉行をつとめたんですってね。でもじゃなんで、清正の像がおいてあるねんや?
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