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横手城跡
登城日:(2003.06.27)
所在地: 横手市城山町29−1
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
郷土資料館となっている横手城跡  朝倉城は横手城とも、また後代に阿櫻城とも云い、詩人は衝城とも言っているが、室町時代の後期、豪族小野寺氏がはじめてこの地に築城したのであります。
 城主小野寺遠江守義道は関が原の戦後、徳川氏に石田方とみられ慶長六年(1601)所領を没収、石見国に配流されたのであります。
 翌七年佐竹氏が水戸から秋田に転封されて入部した時、城を築き、替え城代に伊達氏を後に須田氏、次いで戸村氏が、代々城代を勤めて二の丸におったのであります。
 秋田久保田城の支城として県南の中心的守堡としての要衝の役割が大きかったのであります。幕末戊辰の役には勤皇秋田藩は佐幕派の奥羽諸藩の軍が侵入し明治元年八月十一日仙台庄内の軍勢が朝倉城に迫り、防戦したのでありましたが、遂に利なく寄せ手の砲火によって城は炎上、勇士二十一名は討ち死に、名城と言われた朝倉城は全く灰燼に帰し落城したのであります。
 雄大な景観を有する古城の跡は現在の横手公園として四季のそれぞれの風趣を誇っているのであります。

『横手城跡案内板』より

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資料
 

私見
駐車場が武者溜り跡となっています。  横手城は天文二十三年(1554)、小野寺輝道によって築城されました。関が原の合戦後、佐竹氏が入部すると久保田城の支城としての役割を果たしていたようです。現在は三層建ての郷土資料館として復興され入場料百円という安価な料金で入ることができます。百円ということなので私もはいってみたのですが、はっきり言ってたいしたことはないです。(関係者の方ごめんなさい。)でも最上階には車いすがあったりして、感心させられるところもありました。
 また、この城の背後には本多上野介正純の墓碑がありますが、これは秀忠暗殺の企てがあるということで本多正純、正勝父子が佐竹氏に預けられの身となったことから始まります。やがて佐竹氏は本多父子を横手城代須田盛秀に預けるようになり、以後彼らは横手城三の丸でつらい生活を余儀なくされ、そこで命を終えたのですね。
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