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八戸城跡
登城日:(2003.06.29)
所在地: 八戸市市丸、三八城公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
復元された南部氏邸跡の角屋敷表門  八戸城は、馬渕・新井田川の形成した沖積平野に突き出た洪積台地の先端部を利用して築城されている。
 建武元年(1334)陸奥国司北畠顕家の国代南部師行が糠部郡八戸に根城を築いたが、その後間もないころに、その孫信助が築いた中館(なかだて)がこれであろうという。この一族は根城・中館および新田館に居住し、八戸地方を鎮めてきた。
 戦国時代の末に、三戸の南部信直が豊臣秀吉から朱印を受け、南部内七郡を支配するようになった。その子利直は、寛永四年(1627)に根城南部氏を遠野に移して、八戸を直支配とし、みずから縄張りをして当城および城下町の作事・普請をしたと伝える。城下の西側には根城町の商家を移して三日町・十三日町・二十三日町を、また東側には新田町の商家を移して八日町・十八日町・二十八日町をつくり、現在の市街のもとをつくったという。
三八城公園にある八戸城跡  しかし、当城および城下町の本格的な整備は、盛岡城に移った重直が、寛文四年(1664)世継ぎを定めないまま没したため、幕が新たに弟重信に盛岡八万石を、同じく弟南部直房に八戸二万石をあたえたことにより、八戸藩が誕生した後のことである。
 その領地は三戸郡・九戸郡・志和郡のうち八十三カ村であり、この図は弘化四年(1847)ころのものである。

◆八戸城址碑の要旨
 寛永六年(1629)南部利直は、荒地を開いて城を築き、周りには二重堀を巡らし、郡奉行をおいてこの地を治めていた。寛文四年(1664)、利直の後を継い重直は、子がないまま没した。この年将軍家綱は、重直の遺領十万石のうち八万石を次弟の七戸隼人重信に継がせ、末弟の中里数馬直房には二万石を与え新たに分家させた。
 寛文六年、直房は八戸城に入り、それから250年余りにわたり歴代の藩主・賢臣達が文武に励み、農業・養蚕・織布・畜産の振興に努め、領内は豊かになっていった。
 二代藩主直政は、聡明で早くから学才の誉れが高く、将軍綱吉は側仕えにとりたてた。これに先立って朝鮮国王から将軍に屏風が送られ、これを開ける方法が屏風の外に書かれた詩に隠されていたため、著名な学者にその謎解きを命じたが果たせなかった。それを直政がたちどころに読み解き、屏風を開けることができた。綱吉はこれに感嘆し、福島五万石を与えようとしたが直政はこれを固辞し、この慎み深い実直な性格を愛で皇国三鏡の一つといわれる米曇羅鏡を与えた。直政は後に御使用人となり大いに活躍した。
三八城公園にある八戸城跡  八代藩主信真は、闊達で人の能力を見抜く能力があり、野村軍記を登用し海陸産物の生産を盛んにし江戸に産物を輸送させ領民は利益を得、財政も潤った。
 九代藩主信順は、篤実で思慮深く勤勉・倹約を奨励した。また、一族出身の木幡文内をとりたて領内を豊かにした。明治の戊辰戦争の折、奥羽連合の議が起こり諸藩の圧力が強く、八戸藩は非常に苦しい立場にあったが、信順は藩士や領民懇々と諭し軽挙言動を戒めた。
   明治二年(1869)、版籍奉還して八戸城は政府の管理となったが、後に子爵南部利克所有となった。明治十一年(1878)、八戸城に三八城神社が創建され、新羅三郎義光・南部三郎光行・南部左衛門佐直房を祀り県社に名を連ねた。明治十四年、明治天皇が北巡の際長者山で旧藩士による騎馬打毬をご覧になった。
 今ここに公園の開設と三八城神社改築が行われた記念に、町民が相談し石碑を建立し、以上のことを後世まで伝えようということになり、私が由来の碑文を作成した次第である。

『八戸城跡案内板』より

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資料
 

私見
三八城公園にある八戸城跡  八戸城は、現在は三八城(みやぎ)公園としてわずかに城跡として残されています。公園入り口の道路向いには復元された旧南部邸である角屋敷表門が一番の見所かもしれません。公園内は市庁舎付近に本丸跡があり、その先に広がる公園内に高低差2メートルほどの高台に城址碑が建てられています。
 平坦な地形の城地を印象付けられましたが、市庁舎がある方向とは反対側から見ると結構な急崖があることに驚きました。かつては、城というよりは「御屋敷」と呼ばれていたような規模のものでしたが、二百年以上続いた南部氏十二代の居城は今も控えめに現在に存在している、そんな感じの八戸城跡でした。
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