今治城跡 :(1999.4.24撮影)
場所:
今治市
歴史:
関ヶ原の戦功によって、伊予半国二十万三千石を与えられた藤堂高虎は、慶長五年(1600)宇和島より、当地桜井国府城主となった。然し国府城はその地勢要害が気に合わず廃城とした。
当時、諸侯中で随一の築城の権威であった高虎は今治が高縄半島の北端に位置し、瀬戸内海の中央にあり、海陸に通じて天然の要衝であることに着目した。家老渡辺勘兵衛を築城奉行に命じ、慶長七年に普請をはじめ慶長九年に完成した。本城は大手門、船手門等を設け、外濠三丸、本丸に区切って三重の堀を廻らし、これに北方水門より海水を導入するという日本でも珍しい一大水城であった。現在でも尚無数の海魚が遊泳している。石垣の築造には主として国府城のものを使用し直線傾斜の石積みで荒く、実戦実用型である。勘兵衛の功労を表象し城の表門である鉄門見付に勘兵衛石と呼ばれる大石を置いた。また土木工事に際し志気を鼓舞するために土木頭木山六之丞が作ったといわれる木山音頭や寿太鼓が残っている。
今治城の天守閣は、高虎が伊勢の津に転封され建てられずしまいだったともいわれていた。
「国史」によると、亀山城修築を命じられた高虎が今治城の天守閣を撤去して亀山城に移築、家康に献じたことが記述されている。
寛永十二年(1635)には松平定房が三万五千石で封せられ以来十代、明治維新に至るまで続いた。
現在は本丸にあった藩主の「おたまや」に歴代藩主及び旧今治の諸社を合祀して吹揚神社とし、その境内地となり全域史跡に指定されている。
『今治城案内』より
年表:
私見:
築城家として名高い藤堂高虎の築城した今治城は、ほかにない海水の堀を守りの要として海陸の要衝の今治港に鎮座しています。昭和五十五年に復元された鉄筋五層六階の天守閣も壮観ですが、そのまま船で出撃できるよう船溜りに軍船をつないでおけるようにした構造には感動させられます。まさに闘う為の城ですね。
ま、今は白鳥と黒鳥しかいませんが。