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樺崎砲台(台場)跡


登城日:(2006.08.13)
所在地: 宇和島市住吉町2丁目
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
前面から見た樺崎砲台跡。 左側から見た樺崎砲台跡。かつての姿がよくわかりますね。  幕末、宇和島藩は攘夷態勢を固めるため、七代藩主伊達宗紀(むねただ)は藩士板倉志摩之助らを江戸の砲術家下曽根金三郎信敦に入門させた。下曽根は高島秋帆の高弟である。この高島流砲術が藩内では威遠流と称された。八代藩主宗城(むねなり)はこれを重用し、板倉は砲術師範として門弟を養成し、オランダ流砲術を藩内に定着させた。宇和島藩は、嘉永三年(1850)に高野長英の設計に成る御荘久良砲台(みしょうひさよし)を板倉らが完成させていた。ついで、宇和島湾内にも砲台を築造しようとしたが、安政元年(1854)の大地震による領内の被害が大きかったため、計画は一時中止された。この時、二宮長兵衛在明が樺崎御揚り場(おあがりば)拡張とその横に砲台築造の計画があることを知り、その工費の献納を藩に出願した。藩は家老桜田佐渡を頭取、宇都宮九太夫綱敏・松田源五左衛門常愛(つねちか)を用掛りとして、翌安政二年(1855)三月、砲台築造に着手し、同年十二月にこれを完成させた。海を埋め立てて台場を築く難工事であった。総面積513坪、器械蔵22坪であった。胸墻・砲眼・肩墻・隔墻・火薬庫などの施設と青銅製大砲五門は藩の手で作られた。安政三年、藩学教授金子孝太郎撰文の記念碑が建てられた。さらに元治元年(1864)、湾の対岸に戎山砲台が築かれた。慶応二年(1866)六月、英行使パークスの来訪に際し、樺崎砲台は礼砲を打っている。この洋式砲台は宇和島藩が西洋に眼を開いた遺跡として甚だ貴重である。

左側の石塁が崩れ去った跡のようです。 ◆大砲復元について
 この三十六ポンドカノン砲は、この地に五門設置されていたうち一門の模造砲でクラブ員のロマンに賛同下さる方々のご協力を得て復元させたものである。
 宇和島築城四百年記念事業に協賛すると共に、宇和島ライオンズクラブ結成四十五周年記念事業としてこの大砲を設置する。 (平成十二月十一月吉日)

『樺崎砲台跡案内板』より

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資料
 

私見
内側から見た樺崎砲台跡。  樺崎砲台は宇和島港に建つ宇和島市立歴史資料館の北脇にありました。同資料館の建物も元警察署として利用されていた明治建築のものでかなり味わいがあるのですが、あまり興味がないので置いておきます。
 同資料館の駐車場に車を停めさせてもらい砲台跡を散策です。周囲は埋め立てが進んでしまったようですので海を見ることができなくなっていますが古い写真では宇和島湾に面していますね。
 現在の砲台跡は石塁が下部分を構成されているのがよくわかります。砲眼や胸墻や肩墻が残っています。胸墻の奥は土壇が残っていますが、石塁は崩れてしまっているので小さく砕けてしまっていますね。以前の状況を見ましたが胸墻の中央を隔墻が1本通っており、砲眼が右に3つ、左に2つそして肩墻左右にひとつずつ臨時の砲眼があります。そして奥には火薬庫がつくられていました。(国別城郭・陣屋・要害台場事典)
 最初一目みてその状態に圧倒されたのは石垣、というか石塁がよく残っていることでした。まさに大砲が設置された砲台跡だなという印象です。
右側の肩墻跡である土塁。  この樺崎砲台は安政二年12月に築造されたものですが、それに先駆けて宇和島藩では天儀鼻に久良台場が嘉永三年に、そして蛭子山(戎山)にも元治元年に築造されました。現在は樺崎砲台(台場)だけがこうして史跡整備がされています。あとの2つも場所を確認しようと隣接する資料館に訪ねましたが残念ながら情報は得られませんでした。
 この樺崎砲台の状態を見ても想像できますが、宇和島藩かなり力入ってますね。また外国船に対抗するため船首に大砲1門を設置した舟の演習もしていたということですからすごいものです。各地の台場や砲台の状況を皆がら当時の各藩の取り組みについても調べていますと各地の温度差がはっきりしていて実に興味深いなと感じました。
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