松山城 :(1999.4.25撮影)



場所:
松山市



歴史:

 松山城の創建者は、加藤嘉明である。嘉明は、永録六年(1563)に三河国永良郷賀気村に生まれた。父広明は徳川氏譜代の武士であったが、六歳の時に美濃国で逝去した。孤児となった嘉明は諸国を流浪し、やがて羽柴秀吉に見出されて、その家臣となった。二十歳の時賤ヶ岳の合戦に加わり、七本槍の一人として武勲をたてたことはあまりにも有名である。その後従五位下、左馬助に補せられ、文禄の役の戦功によって伊予国正木(伊予郡松前町)六万石の城主に封じられた。その後慶長の役(1597)においても活躍し十万石に加増され、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに徳川家康に従軍し、その戦功が認められて二十万石となった。そこで嘉明は、同七年(1602)に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を、その周辺部に城下町を築くため、足立重信を普請奉行に命じて工事に着手した。
 翌八年(1603)十月に嘉明は家臣および正木の住民とともに居を新城下に移すこととなり、初めて松山という名称が公にされ、その後も工事は継続された。当時の天守閣は五層で偉観を誇っていた。嘉明は松山にあること二十五年、寛永四年(1627)に会津へ移った。その後へ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上ノ山城から入国し二の丸の造営を完成した。在城僅か七年のち寛永十一年(1634)八月参勤交代の途中京都で病没し、嫡子がなかったので断絶した。その後、寛永十二年(1635)七月伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が松山城主十五万石に封せられて以来世襲して明治維新に至った。なお天守閣は寛永十九年(1642)に三層に改築されたが、天明四年(1784)落雷で焼失した。文政三年(1820)から再建工事を企画し、三十五年の歳月を経て、安政元年(1854)に復興した。これが現在の天守閣である。標高132メートルの勝山山頂に本丸を置き、中腹に二の丸、山麓に三の丸(堀ノ内)を置いた。広大な規模を持ち、姫路城、和歌山城とともに典型的な連立式平山城である。

『松山城案内』より




年表:



私見:

 この松山城へ到達するには3つの手段があります。ひとつは自らの足で踏破する方法、ひとつはロープウェイを使う方法、そしてもう一つがリフトを使う方法です。私は最後のリフトを使う方法で本丸を目指しました。約10分ほどでしょうか。松山の町並みを見下ろしながらリフトを降り、少し歩くと目の前には背の高い石垣が迫ってきました。約7メートルの石垣の上には無骨な印象を与える太鼓櫓が乗っています。ここからの侵入が非常に困難であったことがわかりました。堅牢な戸無門をくぐり、筒井門、太鼓門をくぐってようやく天守の姿が見えてきます。あいにく一の門南櫓が工事中ということもあって正面からの絵をとることはできませんでしたが、3つの櫓とつながった天守は戦をするための城といった感を印象づけてくれます。しかし正直言って三層という構造は少し物足りなさを感じました。