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湯築城

湯築城跡


登城日:(2009.09.22)
所在地: 松山市道後公園
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
湯築城の搦め手門。喰い違いっぽく見えます 今も水を湛える湯築城の外堀  湯築城は、中世の伊予国守護河野氏の居城でした。南北朝期(14世紀前半)から戦国期(16世紀末)まで、250年以上にわたって伊予国の政治・軍事・文化の中心でした。
 現在の道後公園全体が湯築城跡(南北約350メートル、東西約300メートル)で、中央に丘陵があり、周囲に二重の堀と土塁を巡らせた平山城です。
 築城当初は丘陵部を利用した山城でしたが、16世紀前半に外堀と外堀土塁を築き現在の形態になったものと推定されます。また、江戸時代に描かれた絵図から、東側が大手(表)西側が搦手(裏)と考えられています。
 河野氏は、風早郡河野郷(北条市)を本拠として勢力を伸ばした一族で、源平合戦(1180〜1185)で河野通信が源氏方で功績を挙げ、鎌倉時代の有力御家人となり、伊予国の統率権を得ました。承久の乱(1221)で没落するものの、元寇(1281)で通有が活躍し、確固たる地位を築きました。また鎌倉時代には、河野氏から出た一遍上人が時宗を興しました。南北朝期、通盛の頃には本拠を河野郷から道後の湯築城へと移しました。その後有力守護細川氏の介入や一族間の内紛がありましたが、足利将軍家と結びつき、近隣の大内氏、大友氏、毛利氏などと同盟を保ちつつ伊予支配を維持しました。庶子家との争いも克服し、通直は湯築城の外堀を築き(1535年頃)、娘婿の海賊衆村上(来島)通康との関係を強化しました。最後の当主通直(牛福丸)は、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより小早川隆景に開城し(1585)、河野氏の伊予支配に終止符が打たれました。
湯築城の石積遺構 土塁の内部構造が見れます ◆円形石積遺構
 この遺構は、まず円形や楕円形の穴を掘り、河原でとれる拳から人の頭位の大きさの石を集めてきて、この穴の壁に積み上げて造ります。
 「井戸」や「便所」として使われたのではないかと想像しましたが、この穴の底は水の湧く層に達していないので井戸として使えません。便所であれば寄生虫などの卵が必ず発見されるのですが、土を分析しても見つけることができませんでした。
 今のところ何の目的で造られたものかわかりません。皆さんは何に使われたと想像しますか。

◆外堀土塁
 外掘土塁は外堀を掘った時に出る土を盛り上げて造られており「掻揚げ土塁」と呼ばれています。掘と一体となって城の領域を形づくり敵の侵入を防ぐことや、城内がどのようになっているのかを外から見られないようにする目的があります。この付近の土塁が最も残りが良いので、断ち割って造り方をみることにしました。
 機械のない時代に多くの人々の手によって造られたこの大規模な土塁は、湯築城跡の中でも最も代表的な遺構です。
湯築城の土坑遺構 内堀と遮蔽土塁
◆土坑(ゴミ捨て穴)
 土坑の大きさは、長さ約2.5メートル、幅2.0メートル、深さ0.5メートルです。この土坑は内堀土塁裾に作られた排水溝を壊して掘られています。
 出土遺物は、土師質土器の皿や杯が最も多く、なかでも京都の土器を真似たものが、他の土器溜りに比べて多いことが特徴です。これ以外に釜や擂鉢、備前焼や中国陶磁器、瓦質土器がみられます。また周辺では西日本で出土例が少ない丹波焼の擂鉢もありました。最大土坑と同じく儀式や宴会で使用されたものが棄てられたと考えられ、前方にみられる天然の岩肌のすばらしい景色を眺めながら宴会が行われたのでしょう。

◆遮蔽土塁
 この土塁のある場所は、外堀と内堀の間が最も狭い所です。この土塁の重要な役割は、大手からの視線をさえぎることと、上級武士居住区への容易な侵入を防止することにあります。もちろんこの土塁と外堀土塁の間には門が必要です。
 排水溝(実物展示)
 目の前の溝は当時の実物です。大手からの溝は2段階まで使用された後、埋められていました。石の間に見られる赤い線から上の部分は、石が抜け落ちていたので、新しく石を入れ復元しています。
 内堀に流れ込む溝は4段階のもので、遮蔽土塁の南面を区画しています。溝が交わっている箇所で、作られた年代の新旧を判断することができます。

『湯築城跡案内板』より

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資料
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私見
復元された湯築城武家屋敷 現存する内堀  私が初めて湯築城を訪れたのが1999年でした。当時の印象で残っていたのは弧を描く外堀と、その内側に残る土塁だったのですが、その印象はそのままにかなり綺麗に整備されていたのに驚きました。西の搦め手門の右わきにある駐車場と、北側にも駐車場がありますが油断するといっぱいになってしまいますので、このあたりは駐車場の確保がなによりも重要となってきます。有名な温泉が近くにあるのも困ったものですよね。
 さて、おそらくは現在の街の状況からそうなったと思いますが、湯築城は搦め手門があたかも大手門のように城の一番メジャーな出入り口になっているように見受けられます。また入ってすぐに湯築城資料館もあり、ここで日本100名城のスタンプを押すことができるようになっています。そこから左回りに外堀の内側を一周して帰ってくると城内の4箇所に設置されたスタンプラリーを完成させることができますので、湯築城の武家屋敷と搦め手門のペーパークラフトをゲットすることもできてしまいます。
 まぁそういう特典がなくても同じコースで廻るつもりでしたのでゆっくりと整備状況を見て回ることにします。内堀と外堀との間は主に家臣の居住区だったようで武家屋敷が復元されています。また庭園も綺麗に整備されていますね。しかし私が一番の目的にしていたのはその先にある土塁の内部が見られるようになっている「土塁展示室」でした。なんと現存する土塁を縦に割って、その内部構造を見せるという大胆な試みがなされているのです。外堀を掘った土をそのまま盛り上げてつくりあげたとされる掻揚げ土塁の多層構造がなるほどよくわかります。よくこのような思い切ったことができたなぁとほんと感心しました。そのあとは北へと進路を向け、遮蔽土塁と石で作られた排水溝を興味深く見てみます。すぐ先の大手口から上級武士居住区への備えとしてこうした技巧的なしかけが施されているということで、城跡らしい防御意識に触れられたことを実感しましたが、そこで改めてこの湯築城への疑問がふつふつと湧いてきます。それは、ここが伊予国の守護である河野氏の居館であったということを思い返すとなおさらなのですが、城内の案内板には一切城主がいた場所を示すものがないのです。また主郭や本丸といった城の中心的役割を果たすものさえ明示されていません(少なくとも私には気付きませんでした。)。
丘陵上にたつ展望台の斜面 ここに堀切が?  不思議です。大手を入った先からの防御機能も遮蔽土塁くらいしかないことから見て、おそらくはかなり破壊されてしまった後なんだろうと思ったのですが、それでもお城の中心部に立ちたいという人は多いでしょうからなんとかならなかったのでしょうか。まぁ内堀があることから見て、城主のエリアは中央の丘陵上ということになります。城内の案内では最高地となる南側が展望台、そして一段さがって北側の南北に延びたところが丘陵広場ということになっています。どうも昔はこれらの間に堀切が掘られ、北側の長細い広場がかつての河野氏の居館があったところのようです。ここに碑くらいあってもいいんでしょうけどねぇ。
 と、まぁ言いたいことを書きましたが、10年前のかすかに残った記憶から現在の城跡公園としての整備ぶりは完全に別物ですし、後世に正しく伝えようというメッセージは分かる気もします。1周まわっても1時間くらいで見て回れますので温泉がてら、又は松山城とセットでこの湯築城も行ってみてください。100名城スタンプのほかにペーパークラフト(もしくは双六だったかな)がもらえるスタンプラリーもやってますので(^^;
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