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福岡城跡
登城日:(2005.03.19)
所在地: 福岡県福岡市中央区城内
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
南丸の高石垣 ◆史跡福岡城跡
 黒田長政は、慶長五年(1600)十月、筑前の領主となり、名島城に入城したが、治世上適地でないとみて、この地に福岡城を築いた。
 この地は、当時、福崎といっていたが、長政は祖先の領地備前(岡山県)の福岡にちなんで改名したといわれる。
 築城には、七ヵ年を要し、石垣積の名人といわれた重臣野口一成のさしずによって、五メートルから十五メートルにおよぶ石垣がめぐらされ、今もなお、その規模の雄大さを誇っている。

祈念櫓 ◆福岡城祈念櫓
 福岡城は慶長五年(1600)筑前に入国した黒田長政が翌六年から七年の歳月をかけて築城したものです。城は東西に長い梯郭式の平山城で、本丸・二の丸・三の丸に分かれています。その面積は四十八万平方メートルにおよび、昭和三十二年に国史跡に指定されています。
 この祈念櫓は本丸の北東隅に鬼門封じのために建立された二層の櫓で、棟札によって現在の建物は、万延元年(1860)年三月に起工し、同年十月に竣工したことが判明しています。
 その後、大正七年(1918)には本市内にある黒田家菩提寺の崇福寺が陸軍省から払い下げをうけ、その末寺である北九州市八幡西区の大正寺の境内に観音堂として移築されました。その際の棟札によると大正九年に竣工しています。さらに昭和五十八年(1983)から翌年にかけて再び福岡城の現在の位置に再移築がなされました。また、その間の昭和三十二年八月には「旧福岡城祈念櫓」として福岡県の有形文化財(建造物)に指定されています。
 大正初期の移築前に撮影されたと推定される古写真と現在の建物を比較すると外観や規模が異なっており、大正寺への移築の際に大幅な改変を受けたものと推測されます。旧状の櫓の壁は白漆喰で、二層目の窓は花瓶窓であったことが写真から判明しています。

本丸の天守台 ◆福岡城南丸多聞櫓
 福岡城は、慶長五年(1600)に筑前国に封ぜられた初代藩主黒田長政が、慶長六年(1601)から十二年(1607)にかけて築城した平山城である。城は、天守台、本丸、二の丸、南丸(二の丸南郭)、三の丸からなる。
 南丸にあるこの多聞櫓は、江戸時代から城内にそのまま残っている数少ない建物の一つである。
 櫓は、南西隅にある二重二階切妻造り隅櫓と、それに連接して桁行三十間分続く平櫓である。建築年代は明らかではない。一部には近世初期に遡ると思われる部材を用いているが、ほとんどが後世の改修を受け、平櫓は嘉永六年(1853)から翌七年にかけて立て替えられている。
 一般に多聞櫓は防衛のための長塀であり、平素は倉庫等に利用していたものといわれている。部屋の内部は突き抜けの状態が普通とされているが、この多聞櫓は十六の小部屋に独立しており、石落しのみで城外をみる窓がない部屋もある。
 また建物の軒先を支えている万杖と端隠し板で垂木口を隠す工法は福岡城の特徴とされ、古式を留めた城郭建築の美しさを備えている。

『福岡城跡案内板』より

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資料
 

私見
特徴的な石垣門ですね  博多駅に到着すると早速駅レンタカーへ。そしてそこからいよいよ九州攻めが始まります。まずは福岡城を目指したのですが、これが意外と苦労しました。カーナビが一方通行を逆走するようにルートを出してきますので、結局自分で適当に走るしかないような状態でした(--;。さらに、この辺は一方通行が多くて大変・・。
 まぁ小一時間(爆)ほどしてなんとか城跡に到着した時には思わず走り出していました。石垣のイメージはありましたが予想していた以上の状態で、大満足です。祈念櫓を見ながら登城しましたがもう少し時期が遅ければ梅が見事な花を咲かせていたでしょうね。
 本丸へは高い石垣にカメラを向け続けながらただ上を目指していきます。が、天守台のところにある階段はなんとも残念に感じました。そこだけで一気に安っぽく見えてしまうのは私だけでしょうか。
 南丸へと足をむけていきますと、多聞櫓がありました。ここも多くある撮影ポイントの一つですね。そういえばこの先も二層大手門の復元計画があるとか。ぜひともがんばっていただきたいです。
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