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若松城跡
登城日:(2002.05.22)
所在地: 会津若松市追手町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 若松城(鶴ヶ城)天守閣  至徳元年(1384)芦名直盛が東黒川館を築いたのが始まりといわれている。
 その後、会津領主だった芦名盛氏が改築、現在の城郭の原形をつくりあげた(黒川城)。
 文禄二年(1591)には蒲生氏郷が7層の天守閣を築き、名前も鶴ヶ城と改めた。
 その後、慶長十六年(1611)会津地方を襲った大地震により天守が傾いたが、加藤明成の手により現在の五層の天守閣に造りかえられた。
 幕末の戊辰戦争時には篭城戦が繰り広げられたが、明治七年に解体された。しかし、昭和四十年に現在の姿として再建された。

『若松城跡パンフレット』より

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資料  

私見 若松城(鶴ヶ城)天守閣  若松城は鶴ヶ城という名称のほうが一般的かもしれませんね。白が美しく映える天守閣の最上階のまわりにもうけられた真っ赤な手すりが実に象徴的です。
 車で来る場合は城内に2箇所の駐車場が造られています。私は西出丸駐車場に車を置き、梅坂を登り天守閣の裏手から入城しました。 若松城(鶴ヶ城)天守閣  天守閣内は郷土博物館になっており、やはりといいますか幕末の頃の資料がメインでした。天守閣をひととおりみてまわると、通路は干飯櫓・南走長屋へと続きます。ここは平成十三年に完成したということで非常にきれいなものですね。続いて、月見櫓跡、茶壷櫓跡、御三階跡と見て廻ったのですが、ほんとに広い本丸です。だだっぴろいです(笑)。そしてそんな本丸内には麟閣と呼ばれる茶室が保存されています。天守閣の入場料とは別なのですが、是非セット券を購入して、この麟閣にも入られることをお奨めします。麟閣は茶人千利休が豊臣秀吉の逆鱗にふれ、千家が取り潰されそうになったことを危ぶんだ蒲生氏郷は利休の次男、少庵を会津に引き取ったのです。次男といっても年齢は嫡男道安とは同年であり、利休の後妻宗恩の連れ子だったのです。
 そのお礼として少庵が氏郷のために建てたのがはじまりだそうです。本丸のなかに茶室をつくってしまうあたり、氏郷もまた、利休七哲の一人であったことからもなるほどと思わせてくれますね。
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