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館林城跡
登城日:(2003.05.04)
所在地: 館林市城町甲23−1他
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 復元された城門です。  館林城は「城沼(じょうぬま)」を自然の要害とした平城で、別名を「尾曳城」という。
 その形態は、城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突出する低台地を区切って、城の中心である本丸、二の丸、三の丸、八幡郭、南郭を置き、これを取り囲むように、稲荷郭、外郭、惣曲輪を構え、さらにその西方の台地に「城下町」を配置し、そのすべてを土塁と堀によって囲んでいた。
 築城時期や築城者については、江戸時代になって書かれたもののなかに、「赤井照光」によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」と相まって広く知られているが、実際には、築城時期や築城者を明確にした築城当時の記録は現在まで発見されていない。
 現在確認されている「館林城」について書かれた最古の古文書は、文明三年(1471)に上杉軍が「赤井文六、文三」の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である。
 その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、小田原の北条氏による三つ巴の攻防のなかで「長尾氏」「北条氏」などが館林城を支配するようになった。
土塁跡。  天正十八年(1590)の徳川家康関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が十万石で城主となり江戸時代を迎えると、「館林」は利根川を押さえることができる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な地として、江戸幕府に位置付けられ、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
 城の建物の大半は明治七年(1840)に焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており、三の丸には土橋門が復元されている。
 土橋門は城の中心(三の丸)への出入口の一つで、在城当時は正門の「千貫門」に対し、通用門として使用されたものである。
 この土橋門は、昭和五十七年に発掘調査の結果をもとに復元したもので、事前の発掘調査により三基の門の基礎と二基の井戸が発見されている。また、門とあわせて周辺に残る土塁は、三の丸の周りを囲う土塁で、江戸時代からのものである。
 特に門からカギの手状に延びる土塁は「蔀土居」と呼ばれ、開門時に郭内を見通すことができないよう工夫されたもので、県内に残る唯一の遺構で貴重なものである。

『館林城跡案内板』より

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資料 ◆館林城の歴代城主一覧(江戸時代以降)
家名 藩主名 在任期間 石高
榊原 康政 天正十八(1590)〜慶長十一(1 606) 10万石
  康勝 慶長十一(1606)〜元和元年(1615) 10万石
  忠次 元和元年(1615)〜寛永二十(1 643) 11万石
松平(大給) 乗寿 正保元年(1644)〜承応三年(1654)  6万石
  乗久 承応三年(1654)〜寛文元年(1 661) 5、3万石
  綱吉 寛文元年(1661)〜延宝八年(1680) 25万石
  康政 天正十八(1590)〜慶長十一(1 606) 10万石
松平(越智) 清武 宝永四年(1707)〜享保九年(1724)  5,4万石
  武雅 享保九年(1724)〜享保十三(1 728)  5,4万石
太田 資晴 享保十三(1728)〜享保十九(1734)  5万石
  資俊 元文五年(1740)〜延享三年(1 746)  5万石
松平(越智) 武元 延享三年(1746)〜安永八年(1779)  6,1万石
  武寛 安永八年(1779)〜天明四年(1 784)  6,1万石
  斉厚 天明四年(1784)〜天保七年(1836)  6,1万石
井上 正春 天保七年(1836)〜弘化二年(1 845)  6万石
秋元 志朝 弘化二年(1845)〜元治元年(1864)  6万石
  礼朝 元治元年(1864)〜明治二年(1 869)  6万石

私見  現在は三の丸跡に城門が復元されているあたりに土塁もありますのでその辺りだけかと思ってたんですが、全貌を掴もうとすると城沼も含めかなりの広範囲を散策しないといけないですね。なかなかおもしろいです。明治に建物のほとんどが燃えてしまったのことですが、ほんと残念です・・。
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