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桜尾城跡
登城日:(2002.03.23)
所在地: 廿日市市、桂公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
桜尾城跡である桂公園  当城の地は鎌倉より厳島社家たりし藤原氏の拠る折にして、厳島神領の中心なり。城は直ちに海に臨みて内濠を扼し、東は岩戸尾、西に藤掛尾など七尾の諸城を従え、誠に要害の地なり。下して、戦果の世、神領は東に武田、西に大内の狭間にあり、天文十年藤原興藤、戦い敗れて城に火をかけ、三百年の神主家ここに滅ぶ。のち大内、陶、毛利と相ついで城番を置くも毛利の移封と共に廃城と化す。  この間、折敷畑、厳島の合戦には毛利氏の拠点として世に知られた。

『桜尾城跡案内板』より

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資料  

私見
桜尾城跡である桂公園  桜尾城は廿日市市の標高31mの独立丘陵上につくられた山城です。築城の頃は明らかではありませんが、厳島神社の神主職にあった藤原親実が嘉禎元年(1235)、安芸の守護となったころあたりにはすでにここを拠点としていた可能性も考えられています。
 やがて室町時代の終盤から周防の大内氏・山陰の尼子氏・安芸の武田氏らの慌しい争乱のなかに置かれつづけることになりました。
 まず、永享十二年(1440)、安芸銀山城主武田大膳太夫信賢は、足利幕府から厳島の神領であった佐伯郡を賜わったとして翌年の嘉吉元年(1441)に侵入しましたが、厳島神社の禰宜佐伯左近将監親春らが桜尾城に立て籠り、武田勢を防ぎました。(陰徳太平記)
 十六年後の康正三年(1457)に再度武田氏が侵入したが、今度は周防の大内左京太夫教弘が援軍に参じてまたも武田軍は敗退しました。
 永正五年(1508)に大内義興の上洛に従った厳島神主家の興親が亡くなったので神主家は断絶してしまいました。その相続権をめぐって争いが生じ、一方の味方をした宍戸治部少輔が桜尾城にたてこもります。それに対抗するようにして対抗勢力である新里若狭守は藤掛尾城にこもり戦いをくりひろげました。しかし大内氏の支配地となってからは島田越中守が城番として入ります。
 が、大内氏に抵抗を示した友田興藤が安芸銀山城の武田光和と手を組み、周辺地域を勢力下におさめつつ、やがて桜尾城を手中にいれることに成功しました。が、すぐに大内方の陶興房が奪還せんと激しくせめたてました。
 大内方の執拗なる攻撃にも耐えた桜尾城はやがて大内氏の家臣である吉見頼興の仲介により友田が大内に臣従することで講和が成立したのでした。
 が、友田はやがて山陰の尼子氏の活動に呼応するかのように再び大内氏に叛旗を翻しました。が、この動きは大内氏のすばやい反応により奪還し、城番として鷲頭氏が入ったものでしたが、陶晴賢が大内義隆を殺害し桜尾城を占領、がその陶氏に抵抗した毛利氏が攻撃し、毛利下におさめることとなりました。そしてそれは慶長五年(1605)の関ヶ原の戦い後、毛利氏が周防長戸に転封されるまでの間、毛利氏のおさめるところとなっていたのでした。
 と長々と書いてしまいましたが、ほんとにややこしい経緯を持つ、このあたりの歴史をすべて見てきたかのような城だったのだということに感動を覚えたのですが、それにしては「桂公園」となっているのがなんともしっくりこないですね。遺構もよくわからなくなっていますし。
 そういえば全然関係ないですが、私はこの城跡の前でデジカメが不調になり、かなり焦って約15分ほどデジカメを叩いたりいじったりしていたのでした。原因は単なる電池切れで解決したんですけどね(-_-; どうでもいいことでしたね。
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