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多治比猿掛城跡


登城日:(2006.10.29)
所在地: 安芸高田市吉田町多治比
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
 多治比猿掛城跡は、郡山城跡から多治比川に沿って、北西4キロメートル上流にある。石州路に通じる交通の要衝で、郡山城の北方を守る重要な位置にあった。築城から廃城までの歴史的な経緯は明らかでないが、毛利元就が青少年期を過ごした城として知られている。
 元就は四歳の時、明応九年(1500)家督を長子興元に譲り、隠居した父弘元に連れられ、郡山城からこの城に移り住んで以来、大永三年(1523)27歳の時に、甥の幸松丸夭折のあとをうけて、毛利家の家督を継承し郡山城に入城するまで、この城に居た。
 遺構は、標高376メートル、比高120メートルの急峻な山上に長大な平坦部と櫓台、土塁などを持った本丸、二の丸、三の丸などからなる、中心部曲輪群をおき、その背後には深い堀切、尾根続きに物見丸、中心部から北下方に寺屋敷曲輪群があり、竪堀もみられ、谷をはさんで出丸がある。
 山麓には悦叟院(えそういん)の寺院があって、そこに毛利弘元・同夫人の墓所がある。
 城跡は、良好に保存されており、戦国期の毛利氏の城のあり方をよく示す、貴重な城跡である。 奥に櫓台のような土壇を持つ猿掛城本丸跡 竪堀を横目に猿掛城を登っていきます

◆多治比猿掛城本丸跡
 猿掛山の頂上に位置し、長さ50メートル、幅24メートルの長大な平坦面を持つ。
 南側背後は、約13メートルの深い堀切で背後の尾根続きを遮っている。三方は急峻ながけで東側に一段、南側に四段の付曲輪がある。
 本丸平坦部南側に長さ20メートル、高さ、幅とも約1メートルの土塁がみられる。北端には約10メートル四方で、約3メートル高い盛土があり、櫓台として使用したものと思われる。
 ここからは、南を除く三方が見え、石州路に添う要衝の地であったことがうかがえる。東側からは、約4メートル離れた郡山城が望まれる。

◆寺屋敷曲輪群
 この曲輪群は、中心部曲輪群の西端から造られた幅6メートルないし7メートル、深さ2メートル、長さ約130メートルに及ぶ長大な竪堀によって、中心部曲輪群から隔てられ、中心部曲輪群より約60メートル下方にある。
 曲輪群は、上方中央には面積約860平方メートルの広大な曲輪(寺屋敷)を中心に、北方に階段状の曲輪が4段、それをとりまく帯曲輪が8段、さらに上方に3段の計15段からなっている。
 現在、この曲輪群の下段には猿掛山教善寺が建っており、当初からこの段を含めた一帯が寺屋敷曲輪群として使われていたのかもしれない。
 この曲輪群は、急斜面に平坦面を造成し、防御としては竪堀しかないということから、当初から城としてより、寺屋敷として造られたとも考えられる。 深さ13メートルと言われる猿掛城本丸奥の大堀切
◆毛利弘元墓所
 毛利弘元は元就の父で、応仁二年(1468)に生まれた。九歳で毛利家を相続し郡山城主となった。
 尼子と大内の狭間にいた明応九年(1500)長男興元に家督を譲り、二男の元就(4歳)を連れ、この多治比猿掛城に隠居した。
 永正三年(1506)1月11日没した。時に39歳であった。
 墓所は、弘元の菩提寺、悦叟院跡にある。
 夫人は鈴尾城(吉田町福原)主の福原広俊の娘で、文亀元年(1501)十二月八日34歳、福原城内で逝去した。
 大正10年(1921)福原城の福原氏墓所からこの地に移葬された。

『多治比猿掛城跡案内板』より

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資料
 

私見
猿掛城本丸を見下ろしてみます。  猿掛城は郡山城へ向かう途中の行きがけの駄賃でした。道路標識が目に付いたのでふらっと立ち寄ったというのがきっかけです。登城道がしっかりついてましたので車でいけるところまで登っていきます。途中に毛利弘元のお墓や物見丸へと続くルートがあがっていましたがとりあえず本丸を目指します。なんせふらっと立ち寄っただけなので(^^;
 数台分の駐車スペースがありますので、そこに車を停め目の前の登城道を歩いて登っていきます。ここも歩きやすい道になっていますのでありがたいですね。
 すぐに寺屋敷曲輪群に到着しました。明らかに郭とわかる削平地が何段にも続いているのが見えます。しかしそれよりも圧巻だったのは竪堀の存在感ですね。元々の地形が多少なりともこうなってたのかな?と思いながら登ってましたが、それにしても見事なものです。
 うす暗がりの道を登りつめるとようやく頂上から差し込む光が見えてきました。光の中に飛び込むようにして、本丸跡に到着です。綺麗に整備されているのか、非常に見やすい状態です。左手に高さ3メートルの櫓台状の土壇があり背後には土塁が作られています。そこから先は少し藪っていますが、小さな郭が続いているように見えます。
毛利弘元の墓所  基本的には急峻な地形に守られた本丸ですが、反対側の南端まで歩いていって衝撃を受けることになります。ものすごい深い堀切ですよ!結構堀切があれば底を歩いてその様子を体感するのが癖なのですが、13メートルの深さの堀切にはとても降りる気がしませんでした(^^;。
 郡山城のついでのつもりが「すさまじい山城」という認識に変わっていったのはいうまでもありません。堀切の先の尾根上には物見台があるのですが、そこはやめておきます。
 また、反対側の谷向こうには出丸があるのですがここはかつては本丸だったということですね。いやぁ・・・・、他の城にいく予定があるのでここだけに時間をとってられないという事情がありましたが、ここまで見ごたえがあるとは思いませんでした。このあと、本城である郡山城の遺構に一層期待が膨らんだのは言うまでもありませんでした。
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