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赤穂城跡
登城日:(2003.02.09)
所在地: 赤穂市
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
赤穂城隅櫓  赤穂城は、正保二年(1645)に浅野内匠頭長矩の祖父長直が、常陸国笠間から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、実に十三年に亘る歳月を費し、寛文元年(1661)に完成したものである。
 城郭の縄張りは甲州流軍学によるもので、本丸と二の丸は輪郭式、二の丸と三の丸の関係は梯郭式になって、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城である。城郭の規模は、十の隅櫓、十二の諸門があり、曲輪の延長は約二、八四七メートル、面積は六万三、七一一平方メートルに及んでいる。塁石、防壁、諸門、本丸御殿が整えられ、居城としての偉容が示されたが、天守台のみ築かれて天守閣は構築されなかった。
 築城当初から城内に大石邸をはじめ藩重臣の屋敷があったが、浅野家断絶後は永井家、次いで森家の居城となり、明治廃藩後、城塞は惜しくも破壊され屋敷は民有地に払い下げられたが、現在では本丸門内は大名庭園がよみがえっている。
 赤穂義士の自刃250年祭を祈念に、昭和30年春、大手門、大手隅櫓と城壁の一部が復旧され、同46年3月赤穂城跡は国の史跡に指定された。以後、本丸の整備等が進められている。

◆赤穂城清水門跡
 この門は口幅二間二分、奥行七尺七寸、建坪四坪のもので「赤穂城引渡一件」文書では、川口門ともいわれた。
 門を出ると板橋があり、附近には蔵屋敷(米蔵)、川口番所、御薬煙場があった。
 門の内側には敵兵の直進を防ぐために蔀が備えられ、又門の南の石塁と二の丸東北櫓との間の二の丸濠には、六間一尺五寸の竹柵も設けられていた。
 なおこの門は、開城後の大石内蔵助が元禄十四年四月十九日に幕府へ城明渡しの後、名残を惜しみつつ退城したことで有名な門である。
二の丸外堀 ◆二の丸門跡
 赤穂城は、正保二年(1645)に浅野長直が常陸国笠間藩から入封し、近藤三郎兵衛門正純に築城を命じ、慶安元年(1648)より十三年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成した甲州流の海岸平城である。
 二の丸門跡は二の丸の入口として、虎口はやや南よりの西方白虎に開かれた切妻式櫓門が構成されていた。二の丸門虎口の縄張りの一部は、浅野長直に仕えた軍学者山鹿素行が、承応二年に変更したと言われる。
 文久二年(1862)には、この付近で赤穂藩国家老森主税が、藩改革を唱える藩士たちに暗殺された。この事件は、文久事件と呼ばれ、明治四年(1871)の日本最後の集団仇討ち『高野の復讐』の発端となった。
 また、二の丸門をはさんだ、東方の東北隅櫓台から西方の北隅櫓台にかけての石垣土塁は、明治二十五年(1892)千種川の洪水による災害復旧と流路変更のため、築石として使用され取り除かれた。

 ここは二の丸門のあった場所である。
 浅野長直に仕えていた軍学者山鹿素行が承応二年に赤穂に来て、虎口の縄張りの一部を変更したことで知られている。
 赤穂城二の丸の面積は一万七二五九坪あり、二の丸門は櫓門で、口幅三間一歩、高さ二間、建坪九坪の大きさであった。
 また、文久二年(1862)十二月九日に、赤穂藩主森家の国家老森主税が、藩政に対して意見の異なる藩士たちに暗殺されたのがこの付近である。いわゆる「文久事件」である。この事件は、明治四年(1871)二月の、日本最後の仇討ち『高野の仇討ち』の導火線ともなった。
 ここに置かれている半畳くらいの二つの大きな石は、小石を持って叩くと、「かんかん」という音をたてることから誰言うとなく「かんかん石」と呼ばれている。

赤穂城本丸門 ◆国史跡赤穂城跡本丸門(復元)
 本丸門は築城時(17世紀中頃)の建造と推定され、明治十年代後半の取り壊しまでの約230年間存続していました。
 現在の本丸門は、平成四年文化庁の地域中核史跡等整備特別事業として、全国で初めて採択され、国・兵庫県の補助を受けて総事業費約6.7億円をかけて平成8年3月に完成したものです。
 この平成の復元は、明治時代の古写真をもとに、古絵図をはじめとする文献類、発掘調査の成果を総合的に検討して赤穂産の花崗岩による枡形石垣、国産材を使用して昔どおりの伝統工法によって、往時の姿によみがえらせています。

『赤穂城跡案内板』より

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資料
 

私見
本丸跡と天守台  約5年ぶりに赤穂城にきてみました。前回来た時は隅櫓と大手門くらいしかなかったと思ったのですが、二の丸跡やら本丸跡やら、天守台やらいろいろ復元されててびっくりです。「えっこんなに広かったっけ?」とまわりをきょろきょろしながら城域内をさまよっていました(笑)。
 なかでも本丸門とその先の本丸跡は見事に復元されていますね。すっかり見違えてしまいました。本丸手前には「錦帯池」も復元するようで、また1年後くらいに訪れてみたいなと思っています。
 赤穂城に来たら、当然大石神社にもいかねば、と四十七士の像がたつ中を進んで神社境内にはいっていきました。折りしも300年の記念行事かな、が行われてて盛況だったのですが私がデジカメでまわりを撮影していると急に強面のおじさんが来て「すいません、撮影は遠慮してください」と注意をされてしまいました。よくよく見まわしてみると演歌歌手の氷○きよしさんがいるじゃないですか!
 「別にそういうつもりで撮影してたんじゃないのに・・」とは言いませんでしたが(笑)、しかたなくすぐに退散しました。
 関係ないけど、赤穂といえば塩見饅頭、うまかったぁ。
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