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有子山城跡
登城日:(2003.09.07)
所在地:出石郡出石町内町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
本丸跡 突如視界に広がるシノギ積みの石垣 ◆山名氏
 山名氏は、室町幕府において侍所の長官に任ぜられる最も有力な大名の一人で、明徳の乱、応仁の乱の中心勢力として関与した。但馬は南北朝の初期以来山名氏の根拠地であり、南北朝後半以降戦国期まで一貫して山名氏が守護の地位にあった。この山名氏の本国但馬における中世末期の本城が有子山城である。

◆現状
 標高321メートルの有子山山頂に主郭とその西方に6段の曲輪が階段状に続き、また主郭の東南に千畳敷と呼ばれる曲輪がある。石垣の残りはよく、中世の城郭が近世の城郭に移行するまでの過渡期の形態をよく残している。

◆城史
 この城は天正二年(1574)、それまで山名氏の本城であった此隅山城にかわって、山名祐豊により築城された。その名は落城した「子盗」(此隅)の名を嫌って「有子」と命名したという。しかしわずか6年後の天正八年(1580)天下統一を狙う織田軍によって城は陥落。城主は因幡に出奔した。その後城は織田系の城主の管理となるが、江戸時代に入り、麓に出石城が築城され、有子山城は廃城となった。

『有子山城跡案内板』より

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資料
 

私見
本丸下の石垣 まさに城攻め、の登城道  今回二度目となる出石町でしたが、有子山城へは初の登城です。(前回はちょっと腰がひけてしまって撤退しましたんで(^^;)
 さて、有子山城へ登るには出石城の赤い鳥居の下を通る階段を上り詰め、稲荷曲輪のある地点より左に折れ、そこから登っていくことになります。すぐに寂れた展望台がありますが、そこからはまっすぐ、ひたすらまっすぐに尾根上を登っていくことになります。今までいくつも山城は登ってきた私でしたが、この有子山城のように急な傾斜をただただ上へと歩かされたのは初めてです。通常はつづら折りとなった山道を歩くことになるんですが。
 実にきついです。この登城道はまったく気が抜けません。油断すると足元に顔を出した石で滑り、そのまま下へと転げ落ちそうになるんです。この注意は下山時にさらに慎重にならないといけません。
 流れ落ちる汗をぬぐいつつ、途中左側に麓まで真っ直ぐ伸びた竪堀や、竪堀が堀切と複合し、土橋状の形状を残した遺構に感動しつつ漸く平坦な傾斜の道へとたどり着いたときには一気に緊張感が緩んだのを覚えています。
しっかり残る竪堀跡  そこからしばらく歩いていくと曲輪が連続して作られているのを確認しながら、つづら折りの山道をのぼっていきます。やがて視界に石垣が見えるようになってくると、どこからか自然と体力が漲ってくるのが不思議ですね。本丸手前には「シノギ積み」の石垣も見ることができ、感激でした。320メートルを約40分でのぼりつめた後の本丸での出石町全体を一望できるパノラマは実に心地よいものです。
 秀吉に此隅山城を落とされた5年後にこんな見事な山城を完成させてしまう山名氏の実力には単純に脱帽です。しかしこんなに大変な山城も落城してしまうんですね。落城後は三木城から前野長康が、次いで竜野から小出吉政が移封されることになります。吉政の父である秀政の死去により、吉政がかわりに岸和田城を継ぐことになり、嫡男吉英が有子山城を預かることになりましたが、やがて城は廃城となりました。
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