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有岡城

有岡城跡


登城日:(1998.08.30→2010.09.15)
所在地: 伊丹市伊丹1丁目
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
復元された石垣 有岡城本丸 南北朝の時代から代々伊丹氏の城として発展してきた有岡城(伊丹城)は、永正17年(1520)にはその城下町までを取込むという惣構構造の兆しが見られ、その後、一向宗との合戦など数々の戦いの中で、次第に強化されていった。
伊丹氏を破って入城した織田信長方の荒木村重は、信長の命により有岡城と改名し、摂津一国の軍事上の中心として大改修を行い、本城・寺町・城下町と町全体を掘と土塁で囲み、北・西・南に砦を配した惣構の城を完成させた。
天正6年(1578)、村重は信長に反旗を翻し、大軍に包囲されておよそ十ヶ月にわたる攻防の末に落城した。その後、池田之助が城主となるが、天正11年美濃国に転封され廃城となった。
江戸時代、旧有岡城下町を中心に酒造りの町として栄えた伊丹郷町は、伊丹村をはじめ15ヶ所領となった。
有岡城の本城(主郭部)は城掘や土塁が残っていたが明治に至って鉄道の開通により大半が取り壊された。
昭和50年より残された部分の発掘調査が行われ遺跡の保存策が講じられることになり、現在の史跡公園として整備された。

 国指定史跡 有岡城跡
石垣に含まれる転用石 本丸井戸跡  昭和五十四年二月二十八日 指定
伊丹氏がこの場所に城を築いたのは、鎌倉時代末期頃のことである。はじめは居館として建てられたが、戦国時代を経て次第に堅固な構えになっていった。
伊丹氏の城は、天正2年(1574)織田信長方の武将荒木村重の攻撃によって落城した。その後村重は信長の命により有岡城と改名し、壮大な城を築いた。
有岡城は伊丹段丘の高低差を利用し、南北1.6キロメートル・東西800メートルに及ぶ惣構が築かれ、要所には岸の砦上臈塚砦鵯塚砦が配置された。
天正8年、池田之助が城主となるが、同11年美濃の国に転封を命ぜられ、廃城となった。
明治26年、鉄道の開通によって、城跡の東側が削り取られたが、土塁や掘など今もよくその姿をとどめている。
昭和50年より発掘調査が実施され、土塁・石垣・堀・建物・池等の遺構を検出し、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになった。

 懐古園 碑文の概要(意訳)
 この地は、もともと荒木村重の城郭があった跡であるが、次第にさびれて、武内氏の所有するところとなった。氏は城跡がさびれていくのを嘆き、修復して永く後世に伝えようと欲したが果たさずに亡くなった。未亡人の奈如女は、その意志を継ぎ、時機が来るのを待った。この丘陵はたいへん風光明媚で葛城・金剛・六甲・池田の山々に囲まれ、足もとを猪名川が流れている。村重から三百三十年にあたり、未亡人は先人の志を生かそうと決意してこの碑を立て、祭りをした。未亡人の貞節と子息利右衛門の孝順を称え、荒木氏の霊も以て冥すべきである。
 明治三十四年九月二十四日 七十五翁 北山撰ならびに書

『有岡城跡案内板』より

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資料 【地図を表示する】
鎌倉末   伊丹氏により伊丹城築城。
永正17 1520年 城下町を取込み、惣構構造へと姿を変えていく。
天正 2 1574年 織田信長方の武将荒木村重の攻撃によって落城。
村重は有岡城と改名し、壮大な城へと改築する。
天正 6 1578年 村重は信長に反旗を翻し、大軍に包囲されておよそ十ヶ月にわたる攻防の末に落城。
城主として池田之助が入城。
天正11 1583年 池田之助、美濃へ改封となり、廃城となる。

私見
駅前に残る有岡城 綺麗に整備されている堀跡  有岡城は、竹田城とほぼ同時期のちょうど私がお城めぐりをはじめた頃に行ったお城の1つです。そのせいでしょうか、その頃訪れた時の記憶がまだ鮮明に残っていますので現状との違いを見つけることができました。駅前ならではの風景である乱雑に置かれていた自転車もあまりなく、また堀跡が綺麗になりましたね。そしてそこだけ特別に残しましたといった感がある本丸部分だけじゃなく、時間があれば高低差の残る地形を感じながら散策するとおぼろげながら往時の様子がわかった気になれます(あくまで自己満足で)。そういえば「黒田官兵衛はどの辺りに幽閉されていたのだろう」と想像しながら歩く人もいらっしゃるそうですね(^^)。ものすごく分ります。私も幽閉されていた場所でしゃがんでいたいくらいです。
 城跡の現状を見ると少々物足りなさはありますが、その分自分なりに楽しみを設定しながら歩けるお城。有岡城はそういう面白さがあると言えそうです。
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