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枝吉城

枝吉城跡


登城日:(04.08.07→13.09.16)
所在地: 神戸市西区枝吉、枝吉公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
大部分がなくなってしまった枝吉城  枝吉城は、戦国争乱の時代が幕をあける十五世紀中ごろ、明石氏によって築城された。明石氏は、古代明石郡の大領を先祖とするという言い伝えがある。
 城を台地上にかまえ、その東縁には城主の居館を中心に城下町が形成され、一時は地域の中心として賑わった。その後、枝吉城は二度の合戦を経て、城下町もそのたびに戦火にあたが、十六世紀末にはキリシタン大名の高山右近重友が最後の城主となり、一世紀半にわたる枝吉城の歴史は終わった。
 枝吉城が築かれていた台地は城山とよばれ、六万三千平方メートルの範囲には田畑や雑木林、溜池があった。この台地上には、稲作開始期にあたる弥生前期の村落跡もあったが、枝吉城築城の際に壊されてしまった。弥生前期の村落跡「播磨吉田遺跡」と「枝吉城址」の顕彰碑が城山台地上に建立され、この地の歴史の一ページを記念している。

『枝吉城跡案内板』より

 柿本神社由来記
柿本神社境内  当神社の創建は、明石初代藩主、小笠原忠正公時代の元和五年(1619)に、社領田、三反歩が寄進され、元和七年(1621)、明石郡林崎庄吉田村に「柿本大明神」として祭祀されたことに始まる。
 遡ればこの鎮守の森の城山は、弥生時代の「吉田遺跡」であり中世から近世への過渡期には枝吉城があり、神社の境内地は城主明石氏の館跡で、周辺には武士や商人がそれぞれ堀を持つ居を構えた由緒ある史跡地である。
 明治七年には、村社に列せられ「柿本神社」と称せられた。
 また大正七年には、紙饌幣帛供進神社として指定される。境内の本殿(檜皮葺流造四坪四合一勺)、拝殿(瓦葺入母屋造四坪九合四勺)は、昭和五十年一月に改築され、長納屋二間七間(東庄・南庄)、長納屋二間四間(北庄)は、それぞれ撤去された。鳥居は平成七年一月、阪神淡路大震災により倒壊、その年に復旧され現在に至る。

『柿本神社案内板』より

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資料
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私見
かつての枝吉城 枝吉城の城址碑  枝吉城は、高台の公園に城址碑があるのみだという認識でしたので、まったく再訪をしていませんでした。しかしどんなお城であっても、時間が経過しますと見る目が違ってきているのか、前回とは全く異なる見方ができるようになっているのが面白いですね。かつての枝吉城は、東側の麓の登城口そばにある案内版で確認することができます。上ノ池、トク池などで守られ、広大な本丸と二の丸が造られていますね。そして矢倉が7か所、大矢倉が1か所描かれています。これがそのまま残っていたらかなり壮大なものだったでしょう。興味深いのが、その絵図面には整備によって取り壊された部分と現在残されている部分との境界線がはっきりと図示されており、現状をよく理解することができるようになっているのです。これを頭に入れつつ、散策してみることにしましょう。
 まずは、大手側に移動します。池に守られた奥まった構造となっていた大手門ですが、現在もそれを意識したのかは不明ですが、公園内へと通じる入口が造られています。しかし残念ながら頂部にあがることができません。しょうがないので柿本神社の境内から左奥に造られた登城道をあがります。かつてこの神社は明石氏の居館があったのでしょうね。そして、城下町もあったといいますから、東や南に広がっていたのでしょうか。そういえば神社を東に進んだ細い路地には食い違いが残されていました。これもかつての遺構の1つ(というかほぼ唯一?)なんだそうですね。
わずかに残る食い違い  高台にあがってしまうと特に感想はありません(^^;。城址碑が広い原っぱにポツンと造られているといった印象です。ただ、麓で見た絵図をよく思い出してみましょう。現在残る部分にはかつての大矢倉が含まれているのです。ちょうど一番北側でしょうか、金網で先には進めませんが、なにやら凹凸の地表面が見られる気がしますよ。これはお城の遺構なのでしょうか。下の郷土館で情報が入手できればよかったのですが、この日は閉館日でした。また機会があれば来てみたいと思います。
 そういえば枝吉城にいた明石氏といえば、黒田官兵衛の母親も明石氏ですね。2014年の大河ドラマでは枝吉城も取り上げられたりするのでしょうか。楽しみです。
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