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浜田環濠跡


登城日:(2007.01.12)
所在地: 尼崎市浜田町1丁目等
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
改修は受けているが蛇行する蓬川がかつての名残  浜田環濠は蛇行する蓬川を自然の環濠としていた環濠集落である。かつては蓬川とそれに沿って二重の環濠を形成していたが、現在は改修された蓬川が残るのみである。

『大阪春秋第58号』大阪春秋社刊参照

◆浜田川水論牢死者墓碑
 宝暦・明和期(1751〜1771)に、浜田村(大島井組<ゆぐみ>)と西難波村(水堂井組)との間で水争いがありました。
 浜田は旧武庫郡、西難波は旧川辺郡と別れ発展しましたので、村々の結合も異なり井組も異にしています。とはいえ、両村の農業用水は、松原神社の上手を流れる川であり、分水をめぐって再三起こりました。この川筋を浜田は浜田川、西難波は難波井筋と互いに譲らず、17年間も続く争いになりました。水堂井は水堂の田を流れた後、七松・西難波の田を流れていく水路でしたが、一部の水は浜田に流れ、混乱する原因となったのです。
 明和元年(1764)に起きた騒動は、この年の旱魃で浜田西側の水田に水を引くため、夜半に浄専寺境内北辺に水路を造ったためで、これによって村の役職者など10名が入牢全員死亡した。この碑を安永年間浄専寺境内に建て、戦後これは現在地に移転しました。毎年4月15日に合同で法要を営んでいます。
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資料
 

私見
松原神社境内です。  JR神戸線「立花」駅を降り、南へ約800メートルほど歩いたあたりの浜田町付近にかつて環濠集落がありました。松原神社や真宗本願寺派浄専寺、禅宗興禅寺のあたりには堀や池もあったようですが、今はその面影もないですね。
 また集落跡内には「浜田川水論牢死者墓碑」が建てられています。洪水や旱魃に悩まされた当地域の環濠集落においてはまさに水は死活問題。非常に生々しいものを感じずにはおられませんでした。
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