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林田陣屋跡
登城日:(2001.04.07)
所在地: 姫路市林田町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
石垣が残っています  室町時代の後期、谷沢国氏がこの丘に築城し、窪山城と称したのが始まりであるが、永正十三年(1516)赤松政村に背いて落城した。
 藩祖建部政長は慶長十五年(1610)八歳で亡父の跡を継ぎ、大阪の陣では徳川方に属し、摂津国尼崎城を固守した。その功により、政長は元和元年(1615)七月、摂津国川辺郡(兵庫県)西成郡(大阪府)の内で一万石の所領を与えられ、大名に取り立てられた。元和三年(1617)九月、播磨国揖東郡林田に一万石で入封し、窪山城の跡を聖岡と改め、ここに陣屋を構え、灌漑用に鴨池をつくるなど農業に尽力した。以来藩主の交代なく廃藩置県まで十代二百五十年余り建部氏が治めた。
 三代「政宇」は伏見奉行にもなり、京都の大火で禁裏が炎上したときは造営にも当たり正徳四年(1714)には寺社奉行にも昇進している。
 七代「政賢」は学問を好み、林田藩校敬業館を創設した。
 九代「政和」は幕府の大番頭として京都二条城守護の重責につき、敬業館の振興のために河野鉄兜を迎えた。
 歴代藩主の墓は、京都紫野の大徳寺内芳春院にまとめてまつられている。
 建部家は外様大名であったが、姫路藩・岡山藩との縁故もあり、郡北に雄視していた。

『林田陣屋跡案内板』より

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資料
 

私見
堀跡  姫路市西北部にある林田町にある林田陣屋跡は、そこだけが小高い丘となっています。裏手の神社の鳥居をくぐり、小さな川沿いに車を路駐させました。丸くカーブを描くように陣屋跡のまわりを川が流れています。よく見るとその川の内側には数十センチの高さではありますが、切りこみハギでしょうか、石垣が残っています。どうやら堀跡のようですね。
 ぐるりと陣屋跡地の外周を半周し、小学校側から登ってみました。登るといっても比高約数メートルの小さな丘ですからたいしたことありません。が、途中にまたしても石垣が残っているのが目にはいってきました。結構意外でした。しかしそうした外周の遺構に比べ、頂上の平坦部分には一切何もありません。しかも折悪く桜のシーズンということもあって、近所の人でしょうか花見を楽しんでいます。おかげで頂上の写真をとることができませんでした。まぁ梅林となってしまって撮るほどのものはなかったのですが。
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