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堀井城跡
登城日:(2003.01.02→2010.02.14)
所在地: 小野市河合西町字構45〜46番地
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
鬱蒼と茂る藪として存在している堀井城 すっかり薮がなくなった堀井城  堀井城は承久二年(1220)、赤松景能が築城した。四代廣景の時、嘉吉元年(1441)に嘉吉の乱が勃発し一時的に没落したのだが、享禄三年(1530)に堀井兵部長満が再興したようである。が、一方では「播城志」「播磨鑑」では城主の名に矢野彦三郎義純があがっている。

『中世城館調査報告書集成』参照

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資料 【地図を表示する】
 

私見
綺麗な堀が四周しています  中世城館調査報告には詳しい住所が載っているのですが、意外と近くまでくるとよくわかりません。絶対にその辺を歩いている方に声をかけましょう(笑)。
 が、この堀井城はなんとなくオーラが出ています。というのか、絶対にここだ!と直感でわかるんですよ。鬱蒼としげるブッシュがあり、近づくにつれてそこが方形状の地形を構成しており、その周りには土塁があり、さらにその周りには巾2メートル弱の堀跡が綺麗な形状で残っていることに愕然とさせられます。
 まぁ明治時代に修築されたからというのもあるのでしょうが、それにしても見事な状態です。よくぞこんなところにあるもんだなぁと変な感動を受けます。周りにあまりにも藪が茂っているのと私有地なので踏み込むことまではしませんでしたが、唯一の侵入路である南側の虎口からは中の様子をうかがうことだけはできるようになっています。なかはフェンス(だったかな)で入れなくはなっており荒れ果てた状態であるように見てとれました。以前は地主の方が住んでおられたのだそうですが、今ではすっかり放置されっぱなしだとか。
 また、この堀井城は付近にある小堀城同様に河合城の支城であり、水路で連結されていたらしいです。現在は田圃が広がっているので確認は困難ですが、往時は一体化した利用がされていたんでしょうね。
掘立柱建物跡が出た堀井城 北西部の最高所の土塁と手前の内土塁  2010.02.14に堀井城現地説明会がありました。地元では「斯波屋敷」と呼ばれる堀井城は、小野市が5ヵ年計画で発掘調査しています。2年目の21年度の成果として現説が開催されたのです。東西約90メートル、南北約120メートルの方形をもつ堀井城は、周囲に幅6〜14メートル、高さ約0.6〜4メートルの土塁とその外側には幅約9メートル、深さ2メートルの水堀がめぐらされていました(現地説明会資料参照)。現在もほぼそのまま残る姿は感動ものです。数年前には鬱蒼とした薮がまったく内部を見えなくしていましたのが嘘のようです。また、さらにその外部には外郭が形成されていたといいますから河合城にひけをとらない城構えですね。
 現地説明会では、5つに区画されたエリアのうち、南西部に建物に伴う柱穴や礎石を支えるための根石の痕跡が見つかっていました。深さ30センチほどでしょうか、それ以上はバラスになっているということで、中世から近世、そして近代が同じ地層を共有していたということがわかりました。遺物がないということですが、今年、そして来年の成果が今から待ち遠しいです。
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