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生野城跡
登城日:(2003.09.23)
所在地: 朝来郡生野町口銀谷字古城山
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
生野城のあちこちに散らばる石垣跡? ◆生野古城山
 この後の山は、御立山といいます。
 応永三四年(1427)播磨の守護職であった赤松満祐が将軍足利義持に反抗して兵を挙げた際、将軍は、その討伐を但馬の守護職である山名時熈に命じました。時熈は兵を率いて生野に来て、この御立山の山頂に城を築き、満祐討伐に備えました。
   その後、満祐が将軍に謝罪し、赦されて討伐は行われず、時熈は兵を収めて出石に帰りました。
 山頂にはその当時の城址があり、これを「生野古城」山を「古城山」又は「御主殿」と呼んでおります。 ここだけ展望が広がる別郭
◆遺構について
 応永三四年(1427)但馬の守護職 山名時熈(宗全の父)は、四代将軍、足利義持の命により、播磨の守護職、赤松満祐を討伐することになり、兵を率いて生野に出陣し、播但の国境であるこの山の頂上に城を築いて攻撃の拠点にしたのが生野山城であります。
 標高601メートルの山頂には、36メートル四方の主郭(本丸)を中心に、西方の但馬街道に向けて、大規模な二の曲輪、三の曲輪がつづき、尾根の要所には、多数の別郭や堀切りを構築して、赤松軍の攻撃に備えており、中世山城の典型的な遺構を見ることができます。
 570余年を経た山容は今も峻険、深い谷間の雑木林の中にも、土塁に囲まれた曲輪群や堀切りがよく残り、戦国時代の城塞跡として、非常に貴重な存在といえます。又、城跡からの眺めはすばらしく、南の方向には、赤松氏の拠点であった播州平野も遠望され、攻撃に備えて万全の構えを示していたことがよくわかります。

『生野城跡案内板』より

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資料
◆生野城年表
年号 西暦 記事
応永三四年 1427 山名時熈(宗全の父)生野山城を築く。
天文一一年 1542 城山の南まで銀石が掘り出されるが、但馬の守護職、山名祐豊がこれを支配する。その後、大規模な山城の改修に着手し、山麓には平城(居館)を築く。
弘治 二年 1556 竹田城主、太田垣朝延、山名祐豊から銀山の領有権を奪う。
天正 五年 1577 羽柴秀吉は織田信長の命をうけ、真弓峠から但馬に進攻する。
生野城守備の家臣は竹田城まで退散するが、朝延も降参しえて竹田城は落城する。以後、生野山城は廃城となり、山麓にあった平城は信長の銀山経営の拠点となった。
天正一○年 1582 信長の死後、秀吉は生野銀山を直轄地とし大寒を置き経営する。
慶応 五年 1600 関ヶ原の戦以後、徳川家康が生野の地を天領として支配する。
鉱山収入は、260年にわたり幕府の重要な財源であった。

私見
なんとか三の丸までこれました。  生野城へ登るにはびわの丸健康公園の駐車場に車を停め、そこから公園内の滑り台脇をあがっていくことになります。ある程度整備された遊歩道なのであまり大変ではないものの、かなり長い登城道は意外としんどいです。一度平坦な地形に出るのですが、そこからさらに道は続きます。若干険しくなってきているようです。
 なんとか外郭まではこれるのですがそこから先は夏草が生え揃っているため、足元を確認することができません。とは言え簡単に引き返すのは悔しいので無理やり進んでみました。「痛っ!」この辺りから急に増えてきたとげを持つ植物に足を攻められていました。ズボンに執拗にからみつくとげが私の進行をくい止めようとしているかのようです。
 ようやく三の丸跡までいけましたが、そこから二の丸、本丸へはとてもいけそうにありませんでした。なんとか目の前の堀切りだけはわかりますが、二の丸前の石垣なんてまったくわかりません。残念ですが、今の季節はこれ以上は難しいようです。また時節を改めてせめてみようと思います。
 そういや、ときどき見かける人間以外の足跡が実に恐ろしかったです。一人ではやっぱりやめといたほうがいいかもしれません。
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