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金山城跡
登城日:(2004.02.29)
所在地: 篠山市追入
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
本丸南面の石垣  金山城は標高537メートルの頂上に築かれた山城で、本丸を中心に二の丸、矢島丸、朽木丸、加々見丸、コキリ丸などと伝えられる構えを持つ。本丸には一部石垣が遺存しており、町内でも有数の規模を持つ。織田信長の命を受け、丹波制圧にのりだした明智光秀が現在の金山城を天正六年(1578)9月より7年10月にかけて築城させた。
 この金山一帯には数々の文化財が存在している。登山口には赤坂の観音堂があり、風呂の谷奥には「役の行者」が祭られ、その二枚岩の間には文政の年号を刻んだ不動明王の石仏が安置されている。そのほか民話として有名な「鬼の架け橋」「天岩」等の景勝地があり、ハイキングコースとして訪れる人が多い。
金山城本丸跡 ◆金山城物語
 天正六年(1578)二月、三木城主別所長治が織田信長に背きます。篠山盆地一帯を支配していた戦国大名波多野秀治は、この謀反を支援して他の丹波国人衆とともに一斉蜂起します。信長は明智光秀に征討を命じ、同年三月にその軍勢が丹波へ侵攻することになります。
 秀治はその居城八上城にあって、氷上郡にある黒井城の赤井氏と連携しながら、光秀に対し徹底抗戦を続けます。光秀は、この両者の連携を最も恐れていました。光秀には、天正三年(1575)に黒井城を攻めた際、秀治に背後から襲撃され京へ命からがら逃げ帰った苦い思い出があったからです。
 光秀は、秀治と赤井氏との連携を分断するためにその後ここに金山城を築きます。すなわち、多紀郡(現篠山市)と氷上郡の郡境にあって、両郡を結ぶ交通上の要衝であったこの地は、両者の連携を遮断するに格好の地であったからです。これが功を奏したのか、八上城は天正七年(1579)六月ついに落城し、戦国時代に勇名をはせた波多野氏は歴史の舞台から消え去ることになります。

『金山城跡案内板』より

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資料
 

私見
巨石が転がる二の丸跡  雨上がりを確認するやすぐに自宅を飛び出した先は篠山市と柏原町の境にある金山城でした。標高537メートルの山頂に明智光秀が築いた山城です。登山口は篠山市側の追入神社脇と大乗寺のところ、そして柏原町側にあります。私は地元の人に聞いて楽に上がれるという追入神社脇から登ることにしました。駐車場までありますからその整備ぶりがうかがえます。
 登城口には案内板と「1270メートル」の表示が私をちょっと不安にさせます。が、確かによく整備されているようで非常に登りやすい道が続いていました。また途中で「あとxxメートル」という表示があるのも安心して登ることができました。
 やがて瓦や木材が散乱する園林寺跡が見え出したころから一気に山城が姿をあらわしはじめました。すでにこのあたりは金山城の出城です。そしてその先が馬場跡。ってここまで馬できてたんですね。その先が鬼の架け橋、本丸、トンネルへと続く分かれ道があります。私は迷わず本丸へとルートをとりました。がその前に二の丸へ。そこは巨石がごろごろ転がっていました。なんとも雑然とした雰囲気の二の丸跡です。
鬼の架け橋  いよいよ本丸にやってきました。周囲が一望できること、さらに八上城と黒井城を眺めることができるのはさすがは光秀といったところでしょうか。足元に気をつけながら南面へと降りていきますと崩れそうですが石垣が見事に残っています。そして虎口を過ぎ、北面にも石垣が一面を覆っています。ここまでの城を築き上げた光秀の手腕にただただ脱帽です。
 最後に、鬼の架け橋から下を眺めて下山しましたが、たっぷりと時間をかけてあちこち動き回りましたので心地よい疲労を味わった一日でした。
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