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満久城跡
登城日:(2004.12.20)
所在地: 加西市満久町城山
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
東側からの城山、竪堀が続いているのか?!  満久城は、文明四年(1472)に内藤盛次によって築城されたのが始まりとされている。それまで馬渡谷城にいた内藤氏が当地に移ってきたのは、「馬渡谷」という地名が武門にとって不吉であるという理由からであった。一方で、別所氏が河内城から三木城に移ったことに対する抑えのためであるという説もある。
 天正の世になり、織田信長軍の羽柴秀吉が播磨に攻め入った際には内藤氏は秀吉に取り入って滅亡を免れたのであった。やがて満久城は、織豊系の築城技術を取り入れ改修されることになり、内藤氏は秀吉方の戸田勝隆に従うことになり、天正十六(1588)には伊予宇和郡内に扶持を貰い、移りすんでいったとされている。
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資料
 

私見
南側からの城山、城跡は目の前です・・  満久城は、現在ではゴルフ場の中に飲み込まれた格好になっています。「兵庫の城紀行」(神戸新聞総合出版センター刊)では当たり前のようにゴルフ場内でのマナーが書かれており、紳士的に振舞えば城跡を散策できるかのようになっています。が、実はそんなことは遠い昔のことなのです!現在はゴルフ場のたまの休みの日に合わせて事前に予約をすれば場内に入ることが許されます。が、城跡である城山に立ち入ることまでは許可されません、というのが現状です。まぁこれでも不動石氏が加西市に涙の訴えをしてくれたおかげでここまでゴルフ場が譲歩してくれた結果なのですから、彼の隠れた功績を感謝せずにはいられません。
 ま、とにかくゴルフ場の休みにあわせて予約をし、城跡にいってみました。当日その功労者と二人してゴルフ場に着くと、総務部長さんが笑顔で出迎えてくださり、市が用意している(のでしょう)満久城跡の資料をくださいました。そして部長さん自らの運転によるカート案内が!!そんなことまでしていただかなくても、私らは勝手に歩いていきますから。でもそうした部長さんの行為は我々の為にやってくださっているのではありませんでした。
遠く河内城方面を望む  城山脇までカートをつけると「さあここから写真を撮ってください。」ときっぱり。つまりこういうことです。わざわざカートに乗せて案内までしてるんだからここで写真を撮るまでで我慢してくれ、こっちも忙しいんだから、ってことのようでした。が、表向きは「台風の被害により山道がなくなってしまって・・云々」ってことでしたが比高30メートルもなさそうな低い山で、なおかつ地面が見えてる緩やかな丘のような城山を我々がひるむはずがありません。さっきも膝まであるシダをふみわけて急斜面の馬渡谷城を攻めてきたところなんですから(笑)。
 内面からほとばしる憤りを強く押し込めながら、私は西側から堀切はあの辺かなぁ・・と想像し、東に移っては畝状竪堀の続きがあれなのかなぁと空想を逞しくしたりで、まったくもって残念な結果に終わりました。
 とは言うものの、「ここ1〜2年誰も来てない」という城跡の現状を報告できることと、今後も同様の結果に終わりますよと同志に連絡できることを誇りに思うことで自分を慰めることにしました。マジで駆け上がれば1分以内で頂上までいけるんじゃないかと思いながら、カートに揺られ駐車場まで運ばれてしまいました。これが私にとって初のゴルフコースデビューであり、カートデビューってのも可笑しな話です。(^^;
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