HOMEへ Check   Twitterでつぶやく  

田村館跡


登城日:(2005.07.24)
所在地: 淡路市中村
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
妙京寺前にある城址碑  初代城主田村刑部大夫春方公の祖は坂上田村麿将軍なり。其十二世仲実公弘安年中勅に依り信州新井庄より来り幽宮の祭司となり下河合に城郭を構え其子孫連綿と続く。所領は郡家郷、志筑庄、草加、播州加古川、溝口、明石大蔵谷、泉州佐野、河内国等なり後再び田村麿の末孫信州城主義康公の孫春方公当地に来り祭職を継承中村に築城事実上初代城主となる。随う重臣は石上氏、砂川氏、伊東氏、渡邊氏、河合氏、都志氏、田村氏等なり。公は当山に寶珠法華経五千部を奉納、明応三年四月十三日一宮社家六坊を廃し、二代城主左馬正春公は永正十八年当山を此地に移し宏壮な伽藍を造営、大永二年寺領を寄進、同五年一宮寶殿を建立、同年七月二十三日薨去さる。
妙京寺内にある墓石  三代城主左馬助盛春公は弘治元年一宮社殿を造修、同年四月十三日一宮社家六坊を廃し宮坊を建立当山の末寺とし一宮の神事を執行せしめ、当山を一宮別当に任ず。同三年当山御堂を造立、永禄二年三月十四日薨去さる。
 四代城主修理之進村春公は永禄九年一宮本殿造立、天正六年当山御堂瓦造営、同七年一月十七日薨去さる。
 五代城主治郎兵衛経春公は国士無双の武将にて法華経の大信者なり。天正七年織田信長公より武田攻撃の先鋒たる下命あり再三の催促を拒否せしめ良民を苦境に陥る事と成らんか進退茲に窮まり意を決し当山の祖霊を拝し信長公の使者に家臣良民の後事を託し従容として自盡さる。時に天正九年三月十八日なり。
 嗚呼古城は疇昔に非ず今人自ら来住すと、惟うに世は戦乱攻城野戦を事とす、然れども代々の城主大乗妙典に帰依し佛祖の遺誠を遵守し寺社に盡せし偉業を称美讃歎し身軽法重烈信の崇祖の偉霊を顕彰せんのみ

『田村館跡案内板』より

【戻る】

資料
 

私見
旧妙京寺の位置から御土居あたりまでを望む  田村館は、郡家城麓の居館として田村氏がおりました。妙京寺の前に立派すぎる城址碑があったのには驚きです。ご住職はおられませんでしたがお寺の方にお話をお聞きしますとお寺の境内に城主のお墓が移されていることと、今同寺がある場所は昔からの場所ではなく移ってきたんだということがわかりました。結局、正確な館跡の場所は特定できませんでしたが、「御土居」と呼ばれるあたりであることは間違いないよう です。ご住職がいらっしゃれば・・と思いながらこの地をあとにしました。
【戻る】