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金沢城跡 登城日:(2002.10.14) 所在地: 金沢市、金沢城址公園 |
| 歴史 |
◆前田利家と金沢城
天正十年(1582)本能寺の変で織田信長が没し、その後の覇権をかけた柴田勝家と羽柴秀吉の争いは、翌年(1583)賎ヶ岳の戦いで秀吉の勝利に終わりました。この時、佐久間盛政も伯父勝家とともに敗れ去り、途中から秀吉に与した前田利家が石川・河北の加賀ニ郡を与えられ、能登七尾小丸山城から尾山城に入りました。利家は、金沢城と改め、大がかりな整備に取りかかりました。天守閣の創建や、本丸周辺の石垣整備、大手口の付け替えなど、いずれも城の根幹に関わることであり、信長時代からの技術を受け継いだ職人集団が、金沢でもその技を発揮したと考えられています。 キリシタン大名としてよく知られ、茶人、また築城の名手として知られた高山右近が、秀吉に追放された後金沢に招かれており、右近が整備の指揮を執ったとも伝えられています。 ◆金沢御堂と尾山城 金沢城の地が歴史の舞台に登場するのは「金沢御堂」が最初です。「金沢御堂」は、天文十五年(1546)、加賀一向一揆の拠点として現在の本丸の地に創建されたと考えられています。本願寺からの期待も大きく、広く北陸門徒の信仰を集めて、経済的にも人的にも本願寺を支える一大勢力となっていきました。 天正年間にはいると、一向一揆は全国各地で織田信長軍と凄惨な戦いを繰り広げました。加賀へは信長の命を受けた柴田勝家軍が進攻し、この「金沢御堂」は天正八年(1580)勝家の甥・佐久間盛政によって攻略されました。 佐久間盛政は、この地を「尾山城」と名づけ、一向一揆の反撃に備えて堀や土塁の整備を急がせたと伝えられています。金沢城で最大の「百間堀」もこの時に建設が始まったと考えられています。また、城下町金沢の原形とされる「尾山八町」がおかれたのもこのころでした。
◆金沢城の整備 利家によって整備が始められた金沢城は、本丸を中心に、東丸、二の丸あたりが城域であり、三の丸や二の丸御数奇屋、新丸などには重臣の屋敷が配置されていました。 慶長七年(1602)10月晦日の落雷によって、天守閣が炎上し・焼失し、利家時代の象徴がなくなってしまいました。その後、現在に至るまで天守閣が再建されたことはなく、本丸には物見を兼ねた三階櫓と本丸御殿が建てられました。寛永八年(1631)の火災でも金沢城は被災し、翌年辰巳用水が整備されるとともに、城の機能の中心が本丸から二の丸へと移されていきました。二の丸御殿は、元禄年間(17世紀終わり頃)には「千畳敷」といわれるほどに広大な建物となり、藩主前田家の公館であり、加賀藩の中央政府として、重要な位置を占めるほどになっていきました。 宝暦九年(1759)の火災は、金沢城において大きな転機となりました。この火災で、城内はごく一部を除いて全焼し、三階櫓や本丸御殿、二の丸御殿などはすべて焼失しました。その後の復興では、特に実用性に主眼がおかれ、本丸の地は初期の歴史を語るための象徴以外その役目を終え、すべての機能が二の丸に集約されました。新丸にあった御細工所が城へ出されたのもこの時です。また、現存している石川門はこの火災の後、天明八年(1788)に再建されたものです。 さらに、文化五年(1808)の二の丸火災では、全焼した二の丸を再建する際、郷土ゆかりの絵師を起用したり、幕府からの補助金を断って領内からの寄付金を集めるなど、地元志向の強いものとなりました。二の丸御殿に表と裏の二つの能舞台が作られたのも、一部に二階建てが取り入れられてくるのも、この文化の再建によるものでした。
◆明治以降の金沢城明治四年(1871)の廃藩置県により、金沢城の地は兵部省(翌年陸軍省)の所管となり、同八年から歩兵第七連隊が入城しました。同十四年には失火によって、残っていた金沢城の御殿や門、櫓などそのほとんどを失い、石川門、三十間長屋を残すのみとなりました。 第二次大戦後は大蔵省の所管となり、国立大学誘致運動の中で文部省に貸与され、昭和二十四年(1949)金沢大学が開学しました。 平成八年(1996)三月、金沢大学の移転に伴い、石川県が国からこの地を取得し、金沢城址公園として整備を進め現在に至っています。 『金沢城跡案内板』より
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| 資料 |
| 私見 |
金沢城にやってきました。石川門をくぐり枡形虎口を抜けるとだだっぴろい二の丸が一気に視界を奪います。最近できたばっかりの五十間長屋と菱櫓が美しい城内の景色に調和していますね。ちょうどこの日は「加賀百万石」展をやっていましたのでついでに見てきました。五十間長屋とセットで1000円です。まぁそっちのほうはほどほどに、本丸跡へと足をむけてみました。そういえばこの金沢城ってさまざまな世代の石垣が使われているんです。石川門の土台となっているのは野面積みですが、枡形の正面奥は打ち込みハギとなって、完全にその違いを見て取ることができます。金沢御堂から、尾山城、そして金沢城と時代とともにその規模も姿を変えていった金沢城は私の予想以上に見事な姿を見せてくれました。 しかし改めて城の歴史を読んでみましたが、ほんとよくよく火災にあう城ですね。
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