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高松城跡
登城日:(1999.07.24)
所在地: 高松市玉藻町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 月見櫓。  この高松城は、北は海、三方に濠をめぐらし海水を引き入れた日本三大水城の一つとして名高く、完全に海水を濠に取り入れた城は、この高松城だけである。
 当時は外堀、中堀、内堀を有し66万平方メートル(約20万坪)という広大な城域を誇り、堀には海水を満々と湛えて美しい姿を水面に映していましたが、明治初期に中堀の一部と外堀は埋められ、広さも9分の1ほどになった。
 この堀の海水は、城の北側を通っている国道30号の下をくぐって瀬戸内海とつながっているため、今日でも内堀、中堀の水位は潮の干満によって変っている。
 昔は、どのような水位調節をしていたか明らかでありませんが、海から雑魚(鯛・鱸など)がこの潮に乗って水門の網から城に入り、成長した魚が堀で泳いでいるのが見えます。
天守台と蛸橋。
◆天守閣跡(旧玉藻廟)
 高松城は、別名玉藻城とも呼ばれています。
 この城は讃岐の国(香川県)の国主となった生駒親正公が、その居城として天正十六年(1588)から約三ヶ年の歳月を費やして築いた水城です。
 生駒氏時代の天守閣は、この上の天守台に三層四階の天守閣が築かれていましたが、生駒氏の後に城主となった高松松平藩初代藩主松平頼重公が改築し、寛文九年(1669)に三層五階の天守が完成しました。この天守は、南蛮造りと呼ばれる珍しい天守で、もっとも上の五階は東西七間、南北六間、四階は東西六間、南北五間で、最上階がその下の層より大きく、五階と四階の間に屋根がなくて、外見は三層に見えますが、内側は四階に石蔵を加えて五階というものでした。惜しくも明治十七年(1884)に老朽化により取り残され、今は石垣を残すに過ぎません。現在、天守台に建っている旧玉藻廟は明治三十五年(1902)に建てられ、高松松平藩初代藩主松平頼重公と最期の藩主第十一代松平頼聡公を合祀していましたが、昭和二十九年(1954)に城跡が高松市に譲渡されたため、玉藻廟は隣接する松平公公益会敷地内に移され今は建物を残すだけになっています。

『高松城跡案内板』より

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資料 【地図を表示する】
 

私見 天守台の上から広がる景色。小さく見えてるのが艮櫓。  久々の四国編です。徳島を通過しまず目指したのは周りを海水の堀で護られた高松城です。
 高松駅の方角から入城するとまずは非常に手入れの行き届いた日本庭園が眼前に広がります。右手には天守、正面へは月見櫓へと続きます。そのまままっすぐに進路をとった私は堀の水が海へと流れ込んでいるのを見て驚かされました。右から左へ海水導入口とよばれる小さな堰のすきまから少しずつ流れ出る水は間違いなく海水です。堀の内側にびっしりとはりついたフジツボが如実にそれを物語っていました。
 そして其の先には渡櫓があり、さらに三層の月見櫓が厳かに佇んでいます。石垣のすぐ外に道路をはさんでその先が海だとはとても思えない重々しい雰囲気を醸し出していました。
 今度はまた海水導入口を経由して左へ90度進路を変え、二の丸跡を経て本丸跡へと足を踏み入れます。途中にある堀の上を渡してある蛸橋とよばれる屋根付きの橋が本丸へと続く唯一の経路です。有事の際にはここを落として敵の侵入をはばもうとでもしたのでしょうか。しかしそんなことをしたらたちまち兵糧攻めにあってしまいますよね。ここは生駒親正公が黒田如水の設計によって築城した城ということになっています。天下の名軍師であった如水の頭のなかではこの蛸橋はどういう役割を果たすことになっていたのだろうかと考えながら天守台をのぼってみました。思った以上に眺望がすばらしいです。遠く南のほうには艮櫓が見えています。
 駅の方面が開発のため取り壊されたのだとは思いますが、それでもこの高松城がすっかり海水に護られた不思議な城であることはよくわかりました。
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