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知覧城

知覧城跡


登城日:(2009.03.20)
所在地: 南九州市知覧町永里
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
知覧城本丸 知覧城の縄張り  鎌倉時代初め、源頼朝の命によってできた建久八年(1197)薩摩国図田帳(土地台帳)によると、当地は知覧院とよばれ、薩摩平氏の一族である平忠益が郡司として治めており、地頭には島津氏初代忠久が臨んでいました。
 その後、郡司・地頭の職務はそれぞれの子孫に継承され、南北朝時代になると、郡司平忠世は南朝方に、地頭島津久直は北朝に属して各地域を転戦しましたが、ともに没落してしまい、文和二年(1353)に足利尊氏が島津氏五代島津貞久の弟佐多氏の初代の忠光の軍功を賞して郡司知覧忠世の遺領を与えたことにより、これ以後、知覧は佐多氏の領地となりました。
 室町時代初め、知覧は、その頃南薩摩に勢力を張っていた伊集院氏の一族今給黎久俊が押領して、島津氏八代目久豊に反抗していましたが、応永二十七年(1420)ついに降伏しました。山田聖栄自記によると、島津久豊は知覧城(当時は上木場城とよばれました)に入ると、あらためて知覧は「佐多殿の由緒の地」であるといって、佐多氏四代佐多親久に与えました。これが知覧城に関する最も古い記録となっています。
高低差がありすぎる空堀  その後、天正十九年(1591)佐多氏は家臣が豊臣秀吉の命令に背いたことから、知覧を没収され、隣村川辺宮村に領地を移されました。10年後にはまた知覧に復帰しましたが、その間に知覧城は火災にあって全て焼失してしまいました。
 元和元年(1615)には徳川家康は一国一城の制をしきましたが、それをまつまでもなく知覧城は廃城となったものと思われます。
 知覧城はシラス台地のへりにできた浸食谷を利用して空堀とし、10余りの郭(平坦なところ)を築いて、これらを本丸の周辺に配置した山城で、築城当初の原形がよく保存されている貴重な遺跡であると評価されています。
 蔵之城跡
蔵之城の虎口  知覧城は知覧麓の武家屋敷から南西に約1.2キロ、シラス台地の自然地形を利用して、深い空堀で区画され、独立した大規模な丘陵を形成した中世佐多氏の居城である。
 城の中心に位置する蔵之城は、平成十三年(2001)から十六年(2004)に発掘調査が実施された。掘立柱の建物跡や炉、虎口(城の入口)などの施設の跡がみつかった。遺物には15世紀、16世紀代を中心とした中国(明)やタイ(シャム)などの青磁や白磁、染付けの皿・碗・瓶それに茶つぼ・茶入れ、甕など多数の陶磁器片がある。また、硯や碁石、かんざし、鉄クギ、青銅製の十一面観音菩薩立像などが出土した。
 曲輪(平坦地)の南側には、掘立柱建物が密集して建っていたのに対して、北側には、木炭を含んだ施設の跡や炉跡などが見つかっていることから、北側は作業場や炊事場で、南側は、武士たちの居住の場として区別されていたのだろうか。当時の城でのくらしがしのばれる。

『知覧城跡案内板』より

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資料
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私見
知覧城の中心部 知覧城の本丸  知覧城にやってきました。九州南部に見られる台地立地型城郭や群郭式城郭などと呼ばれる特異な状態がよく残っているお城であることはすぐに分かりますね。駐車場そばの案内板にある縄張り図を頭に叩き込むようにして凝視すると散策開始です。(でも記憶があやふやなのですが、ここにパンフが置いてあったような気もします。)しかしすぐ目の前にあるのが本丸なんですね。ほんと不思議な構造です。シラス台地をうまく利用し、それぞれの郭がほぼ地面と垂直にそそり立っており、城内には空堀がめぐらされています。発掘時の資料を見ますと、往時は今見ている空堀の地表面からさらに7メートル掘りさげたところに堀底があったということですから、すさまじいです。現在の状態でもかなりのインパクトですのに・・。また現在は空堀の中に木々が伸びていますが、往時はこういうのもなかったのでしょうから想像できるその姿の威容さには言いようのない衝撃が走ります(^^)。私の場合は非常に珍しいのですが、時間の関係もあり最初に本丸から攻めることにしました。自然をうまく使った粗いものなのかと思っていたら、枡形の虎口があったりとなかなか侮れませんね。そして頂部に出ますと、城址碑があり北側には土塁が見えています。眺望があまりないのが非常に残念な限りですが、整備保存が大変難しそうなシラスですので、そういう意味合いがあるのかもしれません。加工しやすい、崩れやすいとは言いますが、本当に今日までよくぞ残っていてくれたと誰かに感謝したくなってきますよ。
見事な知覧城の空堀 見事な知覧城の空堀  続いて蔵之城です。ここは平成十三(2001)年から同十六年(2004)の間、発掘調査が実施されていたところです。4x4間の掘立柱建物跡や、土坑、石で囲われた炉跡など多くの成果があったことで知られています。北側の土塁そばで日常的に火を使った生活空間の存在が想像できますね。蔵之城を下ると、弓場城・今城と順に回っていき、ほぼ城の中心部をざっと見て回って、ここをあとにしました。ほんとは城域全体を見て回りたいところですが、時間の限られた遠征ではなかなか難しい、恨めしい名城ですよ。改めて郭の配置を見ていますと、西ノ栫、東ノ栫、蔵屋敷、殿屋敷、道無城、児城、南ノ栫、式部殿城、伊豆殿屋敷などほとんどそれぞれの名前が残っているんですね。こういう点も興味が惹かれるポイントの1つです。そういえば「栫」は”かこい”と読むのでしょうか。配置としてもうまく城の外周の役割を果たしている郭となっています。
 正直まだこの形式のお城に不慣れ(不勉強)なこともあり、今一つ構造やその役割を納得しながら見ていくということはできていませんので、ぜひともまた再訪をしてみたいと思います。その際には同形式のお城もあわせてみてみないと。
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