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人吉城

人吉城跡


登城日:(2009.03.21)
所在地: 人吉市麓町
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
球磨川側から見た人吉城 天端が少し飛び出ている刎ね出し石垣 ◆史跡 人吉城跡
 人吉城は、もともと平氏の代官がいた城でしたが、遠江国(静岡県中部)相良の出身で人吉荘の地頭となった相良長頼が、建久九年(1198)に城主となり、翌年より修築したと伝えられています。その修築の時、三日月の文様のある石が出土したので、別名を三日月城あるいは繊月城とも言います。
 人吉城が史料に初めて出るのは、大永四年(1524)のことです。この頃(室町時代)の人吉城は、原城と呼ばれる城跡東南の台地上にあった山城で、素掘りの空掘や堀切によって守られていた城でした。
 室町時代に球磨郡を統一した相良氏は、やがて芦北・八代・薩摩方面へと領土の拡大を図り、戦国大名として発展します。しかし、天正十五年(1587)の豊臣秀吉の九州征服により、球磨郡のみを支配することになり、以後は石高22、165石の人吉藩として明治四年(1871)の廃藩置県まで存続しました。
三の丸にあった人吉城案内板  人吉城が石垣造りの近世城として整備されるのは天正十七年(1589)からで、何度か中断をしながらも、51年後の寛永十六年(1639)に現在見られる石垣が完成しています。
 球磨川と胸川を天然の濠とした人吉城は、本丸・二の丸・三の丸・総曲輪からなる平山城です。大手門・水の手門・原城門・岩下門によって区切られる城の周囲は、2,200メートルもあり、広大です。本丸には天守閣は建てられずに二階建の護摩堂が建てられ、二の丸と三の丸の西側麓には城主の屋敷がありました。城の周辺の総曲輪は、上級武士の屋敷となり、川岸近くには役所や倉庫が置かれました。
 水の手門近くの『武者返し』と呼ばれる石垣は、幕末に導入された欧州の築城技術である槹出工法で築かれたものとして有名です。
 城内の建造物は、廃藩置県の後に取りこわされて残っていませんが、保存の良い石垣が人吉城の姿を今に伝えています。

◆二の丸跡
三の丸に至る門跡 人吉城二の丸  戦国時代までの人吉城は、東南の上原城を本城とする山城であり、この場所は「内城」と呼ばれる婦女子の生活する地区であった。天正十七年(1589)、第20代長毎によって近世城としての築城が始まると、本丸や二の丸の場所となり、慶長六年(1601)には石垣が完成している。
 二の丸は、江戸時代の初め「本城(本丸)」と呼ばれているように、城主の住む御殿が建てられた人吉城の中心となる場所である。周囲の石垣上には瓦を張りつけた土塀が立ち、北東部の枡形には櫓門式の「中の御門」(2.5間X9.5間)があり、見張りのための番所が置かれた。また、北辺には御殿から三の丸へ下る「埋御門」が土塀の下に作られ、この他に「十三間蔵」(2間X13間)や井戸があった。
 三の丸は二の丸の北・西部に広がる曲輪で、西方に於津賀社と2棟の「塩蔵」(2.5間X6〜7間)を、東の「中の御門」近くに井戸と長屋を配置するだけで、大きな広場が確保されている。その周囲には当初から石垣は作られずに、自然の崖を城壁としており、「竹茂かり垣」と呼ばれる竹を植えた垣で防御している。これは、人吉城がシラス台地に築かれているため、崖の崩壊を防ぐ目的もあった。
 二の丸御殿 享保四年(1719)の「高城二ノ丸御指図」によれば、御殿は北側を正面とするように配置され、「御広間」(4間X9間)・「御金ノ間」(6間四方)・「御次ノ間」(4間X6間)の接客・儀式用の表向建物と「奥方御居間」(3間X8間)・「御上台所」(3間X9間)・「下台所」(5間X8間)の奥向の建物の合計6棟からなる。これらの建物は、すべて板葺の建物で、相互に廊下や小部屋でつながり、建物の間には中庭が作られている。この内、「御金ノ間」は襖などに金箔が張られていた書院造の建物で、城主が生活・接客する御殿の中心となる建物である。

◆本丸跡
礎石が残る人吉城本丸  本丸は、はじめ「高御城」と呼ばれていた。地形的には天守台に相当するが、天主閣は建てられず、寛永三年(1626)に護摩堂が建てられ、その他に御先祖堂や時を知らせる太鼓屋、山伏番所があった。礎石群は、板葺きで4間四方の二階建ての護摩堂跡である。
 中世には「繊月石」を祀る場所であったように、主として宗教的空間として利用されていることに特色がある。

◆大村米御蔵跡・欠米蔵跡
特徴的な武者返しの石垣 復元された人吉城水ノ手門  人吉藩では藩内12ヶ所に米蔵を置き、このうちの間(村)蔵と大村蔵は、それぞれ城内の水の手口と堀合門東方に1棟づつあった。大村米御蔵(西側礎石群)には隣接して欠米御蔵(東側礎石群)があった。発掘調査で「御用米」「免田納米」「上村納米」と墨書した木札が出土している。右手の門は堀合門である。
◆水ノ手門跡
 慶長十二(1607)年から球磨川沿いの石垣工事が始まり、外曲輪が造られた。水運を利用するため、川に面した石垣には7箇所の船着場が造られ、その中で最大のものが「水ノ手門」である。
 この門は寛永十七年(1640)以前から幕末まで、人吉城の球磨川に面する城門であった。
 享保十三年(1728)、「御修理場御本帳写」によると門の規模は三間で、門の内側に板葺きの御番所、茅葺の船蔵があった。
 平成十一年度の発掘の結果、門は大きく壊されていたが、階段や排水溝が確認できた。川側にあった船着場は石張りの傾斜面となっていて、水位の増減に対応できるように工夫されていた。
 水ノ手門近くにある大村米蔵跡・欠米蔵跡の発掘調査では、「御用米」「免田納米」「上村納米」といった木札が出土していて、免田や上村方面から年貢米が球磨川の水運を利用し、この門から城内に運びこまれていたことがわかる。

◆大手門櫓跡
人吉城大手門櫓  胸川御門とも呼ばれた大手門は、城の正面入口となる重要な場所であったので、石垣の上に櫓(矢倉)をわたして下に門を設けた。さらに門前の通路は鍵形にして枡形に作り、また、門の北側には多門櫓を建てて、外濠となる胸川の対岸に大手橋を架けて防御している。門内には番所を置いて監視させている。
 大手門櫓は正保年中(1644〜1648)に建てられ、享保五年(1720)に造り替えられ、明治初期の払い下げで撤去された。撤去前に撮影された写真を基に描かれた油絵によれば梁間2間半(5m)、桁行12間(24m)の瓦葺き切妻型の櫓門で、壁の上部は漆喰塗り、下部は板張りとしている。大手門櫓と多門櫓の間には、長さ3めmの瓦葺きの板塀がつく。

『人吉城跡案内板』より

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資料
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私見
豊富に石垣が残る人吉城 三の丸南斜面の石垣  九州道を人吉ICで降りて南下していくとすぐに球磨川越しに人吉城の石垣が見えてきました。水ノ手橋を渡り、すぐ右手に駐車すると刎ね出しの石垣を撮影し、そして駆け足で水ノ手橋を戻って遠景から撮影。今考えれば人吉城はファインダー越しに見る時間のほうが多いんじゃないかと思うくらいあたり構わず写真を撮ってしまいました(^^。
 ほとんど事前に調べていきませんでしたので全てが新鮮でいいですね。まずは水ノ手橋から伸びる道路で分断された東側部分、人吉城址公園となっているところを中心に歩いてみます。南側に水濠を持つ相良護国神社はかつて御館があった場所です。ちょうど桜が咲き始めた時期だったのもあり、非常に美しい景色が見られます。といってあまりゆっくりしていられないのはすでに人吉についたのが17時頃でしたので速足で見所のあるところを優先的に回ってみることにしました。
  人吉城三の丸の石垣  慌ただしく階段をあがると、だだっ広い三の丸が、そして奥のほうには高く伸びた木々が林立する二の丸が視界に入ってきます。写真でうまく伝わるかはわかりませんが、整備された城跡の美しさに感動するというのは珍しいです。三の丸だけで十分満喫できてしまいそうでしたが、慌てて二の丸、そして本丸へと上がってみます。眺望がほとんどなかった本丸はすぐに退散し、やはり三の丸で景色を楽しんでしまいました。そのまま御下門、米蔵、堀合門と整備されたエリアを見て回って実感したのはほんとによく整備されているだなということです。何度かの段階を踏んで少しずつ整備、復元をされているんですね。それは西側の西外曲輪の一帯を見てもよくわかります。ここを含めると東西約800メートルくらいの規模になるのではないでしょうか。人吉城の初めの印象とはかなり変わってきましたよ。体系的に知りたいと思い、人吉城歴史館に入ろうと思いましたが残念ながらすでに閉まっていました。当然ながら100名城のスタンプもお預けです。最初にここを訪れておけば間に合っていたのに、非常に悔しい気持ちでいっぱいです。気を取り直して、そのままぐるりとまわっていきますと西側に大手門櫓がありました。
 近世城郭をすっかり堪能したあとは、改めて人吉城の東側へと足を向けられることをお勧めします。そこには中世山城の原城跡が残っています。大きな堀切も見れますし、近世の人吉城の雰囲気とは明らかに違う様相を楽しむことができると思います。
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