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丸岡城跡
登城日:(2004.06.13)
所在地: 亀岡市余部町古城39番地,西岸寺
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
天守があったとされる西岸寺  この地は、古城と呼ばれる小高い平地で丸岡城(余部城)の城跡である。現在でも「古城」・「古城浦」・「政所」などの地名、城跡周辺に寺院などの跡地が点在し「兵庫寺跡」・「宝蔵寺跡」・「庚申堂跡」・城の東麓に「元西岸寺」が残る。
 丸岡城が登場するのは、十五世紀の応仁・文明の乱のとき東軍の軍事的拠点としてである。戦国時代に入ると、天正(1573〜93)年間、八上の波多野氏が丹波をほぼ手中にし、その傘下にあった福井因幡守貞政が、この城を守り地域権力の拠点的城として使われた。しかし、天正六年六月三日、織田信長の命を受けて丹波に進攻した明智光秀の軍勢が宇津根・雑水川・安行山の三方から丸岡城を攻めて、落城した。
 さらに勢いに乗じた光秀は八上の城も攻め落として丹波を手中にし、荒塚山に亀山城を築いた。
 丸岡城の大手門は、この坂道あたりで天守閣は、西岸寺のあたりとされています。

『丸岡城跡案内板』より

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資料
 

私見
西岸寺前に城址碑。ここが大手門跡らしい  JR山陰本線「亀岡」駅と「並河」駅との間の古い街道沿いの民家が密集する中に丸岡城跡はありました。まず最初に苦労するのが駐車ポイントです。私は休日ということもあり、少し離れた寺の裏手になる保育園の駐車場をお借りしましたが、西岸寺の駐車場も2箇所ほどありましたので、そちらに停めてもよかったのでしょうね。
 寺がたつ場所は密集するなか、唯一見晴らしのいい高台となっており、城地とするには都合のいい場所であることはわかります。しかしここにどれだけ堅牢な城があったのでしょうね。光秀の軍勢にかなり善戦したといった記述もみかけますがどうなのかなぁ・・。
 遺構は望めませんが、立派な城址碑と案内板があるだけでも十分ありがたかったです。
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