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上野城跡
登城日:(1999.12.24)
所在地: 安芸郡河芸町上野、本城山青少年公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
本城山青少年公園です。右手にある台状地が城跡です。 上野城は、元亀元年(1570)織田信長の弟信包が津の仮城として、この地に築城し、天正八年(1580)津城の完成と 共に、信包に代り、分部光嘉が上野城代となり、文禄四年(1595)一万石の独立した上野城となって光嘉が城主となった。
 慶長五年(1600)関ヶ原合戦の際、津城主富田信高を助け、その功によって所領二万石となったが、元和五年(1619)城主分部光信は江州大溝藩へ移封となって、上野藩は廃藩となった。
 この城は、標高三十メートルの台地に土畳ねかさみで構えたものであって現在城跡といわれる台状地があり、その北隅にさらに高い櫓状の台状地がある。この東側の畑と山林が二の丸といわれ、本丸、二の丸を囲む、南、北、西の平坦地は、家中の侍屋敷が建ち並んでいたという。
 本丸の一角に本城松という、一大松樹があって、海上を航行する船々漁民のめじるしとして尊重されていた。

「上野城跡案内板」より

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資料
 

私見
井戸跡です。ここが生命線となってたんですね。  上野城は神戸城から津城へいく途中でちょっと立ち寄ってみました。23号線を南下していく途中に右手に「本城山青少年公園」というのが見えてきたらそれが城跡です。
 公園の北側の駐車スペースに車をとめ、周りを見渡してみましたが城跡らしいものはまったく見当たりませんでした。が、右手にあった公園案内図にはしっかりと上野城跡と書いてあります。そもそもこの三重県で上野城といえば伊賀上野城しか知りませんでしたので、「一体いつの時代やねん。」と思いながら公園の小高い丘になっているところをあがっていきました。
 台地状の丘にあがってみるとそこはだだっぴろい広場になっているだけです。が、案内図をよく見るとここが本丸跡のようです。かろうじて遺構として残っていた井戸跡があったのと、本丸跡地をぐるっとめぐらした低い50センチ程度の高さの土塁が城跡らしさを感じさせてくれます。
 しかし、こういった公園化された史跡なら当然なんらかの手が施されているはずの天守台がなんとここでは展望台がたっています。そりゃまぁ使い方はあってるんですけど、何も天守台跡に展望台をつくらなくっても、ねぇ・・・・
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