鈴岡城跡 :(2000.11.18撮影)
場所:飯田市駄科
歴史:
◆鈴岡城の概要
鈴岡小笠原氏の居城として十五世紀後半の戦国時代に用いられた鈴岡城は、竜丘駄科地区と伊賀良殿岡地区の中間に位置して台地の突端部にあり、標高四百九十メートル、北は毛賀沢川の侵食による深さ約六十メートルの谷を隔てて松尾城址と相対している。
城址はこのように天然の地形を利用した平山城で、その中に人工を加えた幾多の空堀や郭等が設けられている。この図にはないが外郭から西北方向の斜面にも三百メートル程の間にいくつかの郭が形成され、全体では東西三百メートル、南北六百メートルにわたる大規模なものであった。
松尾小笠原氏とは同族の間柄であるが、信濃守護職をめぐり、鈴岡城主が松尾側に殺される等争いが絶えなかった。一旦は断絶となった鈴岡城はその後再興したが、1554年に武田信玄の攻撃をうけ落城した。
城址は昭和四十六年に県史跡に指定された。
現在、本丸と出丸は公園として利用されており、二の丸と外郭は畑となっている。また、毛賀沢川にかかる不動ヶ橋を利用して対岸の松尾城址に行くことができるが、松尾城址も現在公園として整備されている。
この城跡は、飯田市駄科の西北部にある段丘の東突端、標高約四百九十メートルにあり、自然の地形を巧みに利用して構築された平山城で跡で、いくつかの空堀で区切られた本丸、二の丸、出丸及び二つの外郭縄美に西方高地にある遠見原の要害からなっている。
築城は、小笠原貞宗の第二子宗政が、松尾家から分家して鈴岡家をはじめた頃といわれている。宗政は貞和元年(1345)天竜寺供養の際随兵を勤めているが、子孫は判明していない。
築城以来、松尾・鈴岡・深志の小笠原三家の間において、しばしば不運な争いが起こり消長を重ねたが、天文二十三年(1554)八月武田晴信(信玄)の伊那侵攻により松尾城の支城となり、天正十八年(1590)廃城となった。鈴岡小笠原家は、一時期には宗家の松尾小笠原家に代わって南伊那を治めているが、同家の居城であった。
この城跡は、幾多の興亡の歴史を秘めてほぼ原形に近い形で保存されており、中世の南信濃における
平山城の遺構を探る上で貴重な城跡である。
鈴岡城跡案内板より