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上田城跡
登城日:(2000.11.19)
所在地: 上田市二の丸、上田城址公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
右側の隅櫓  上田城は、真田真幸によって天正十一年(1583)から築城が開始された平城である。城郭自体の規模はさほど大きくはないが、南方は千曲川の分流である尼ヶ淵に面した断崖に臨み、他の三方は城下町と河川を巧みに配して、周囲一帯を極めて堅固な防禦陣地としている。この上田城の特性は、天正十三年(1585)と慶長五年(1600)の2回にわたる徳川氏との合戦の際に遺憾なく発揮され、真田氏と上田城の名は天下に鳴り響いたのである。
 しかし、真田氏の上田城は、関が原の合戦後に徹底的に破却され、現存する上田城の隅櫓や石垣は、寛永三〜五年(1626〜28)にかけて、仙石忠政によって新たに築き直されたものである。
 仙石氏による上田城再築は、忠政の病死により中絶し、堀や石垣などの普請(土木工事)は完成したものの、櫓や城門を建てる作事(建築工事)は本丸のみの未完成に終わった。本丸には天守は建てられず、7棟の二層隅櫓と2棟の櫓門が建てられたことが、絵図などの記録と発掘調査によって確認されている。上田城は仙石氏の後、松平氏によって受け継がれ明治維新を迎えた。
 現存する3棟の隅櫓のうち、本丸西虎口(城郭の出入り口)に建つ1棟(西櫓)は、寛永期の建造当初からのものであるが、本丸東虎口の2棟(西櫓・北櫓)は、明治初期に民間に払い下げられ、市内に移築されていたものを市民の寄付により買い戻し、昭和十八〜二十四年にかけて現在の場所に復元したものである。これら3棟の櫓は、江戸時代初期の貴重な城郭建造物として、昭和三十四年に長野県宝に指定された。
 3棟の構造形式はいずれも共通で、二層二階、桁行五間、梁間四間の妻入り形式である。屋根は入母屋造りで、本瓦を葺き、外廻りは白漆喰塗籠大壁で、腰下見板張り、内部は白漆喰塗りの真壁となっている。窓は白漆喰塗りの格子窓で、突き上げ板戸が付いている。
 なお、本丸東虎口櫓門と袖塀は、明治10年頃に撮影された古写真と、石垣の痕跡、発掘調査の成果などをもとに、平成六年に復元したものである。櫓門と同時に整備された本丸東虎口の土橋には、両側に武者立石段と呼ばれる石積が設けられ、本丸大手口としての格式を示している。
その下にある真田石 ◆真田井戸
 この井戸からは、抜け穴があって城北の太郎山麓の砦に通じていた。敵に包囲されてもその抜け穴より兵糧を運び入れるにも、城兵の出入りにも不自由しなかったという。

◆上田城の歴史
 上田城は真田幸村(信繁)の父、真田昌幸によって天正十三年(1585)には、一応の完成をみたものと考えられている。
 この上田城はまもなく、天下にその名を知られるようになった。それは、この上田城に拠った真田氏が、二度にわたって徳川大軍の攻撃をうけ、見事にそれを撃退してしまったからである。
 最初の合戦は天正十三年に行われた。攻め寄せた徳川勢は七千人余、迎え撃つ真田勢は二千人弱であった。しかし、真田氏の巧妙な戦術によって、徳川軍は思わぬ大敗となり、死者を千三百人余も出した。これに対し真田方の死者は四十人ほどであったという。
 二度目の戦いは、慶長五年(1600)の関が原の合戦に際してのものであった。関ヶ原へ向かう途中、上田へ押し寄せた徳川秀忠軍は、三万八千人という大軍。これに対し昌幸、幸村父子の率いる上田城兵はわずか二千五百人ほどであった。しかし、このときも徳川勢は上田城を攻めあぐね、この地に数日間も釘付けにされただけに終わり、関ヶ原での決戦に現われるという大失態を演ずることになる。
紅葉の季節です。  上田城はいわば地方の小城であった。石垣も少なく、一見したところ要害堅固な城とも見えない。しかし実際は周囲の河川や城下町を含めた合体がきわめて優れた構造となっていたことが現在、学術的研究によって明らかになってきている。全国に数多い近世城郭のなかで、二度も合戦を経験し、しかも常にこのような輝かしい戦果をあげた城は、ほかに見ることはできない。
 上田城はその後、徳川軍の手で破却されたが、真田氏にかわって上田城に入った仙石氏によって復興された。(寛永三年、1626)この時復興された上田城は、真田氏時代そのままであったとみてよく、仙石氏の後、松平氏の世となってもほとんど変化はなかった。
 廃藩置県後、明治七年、上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となった。
 この時、本丸付近を一括して購入した丸山平八郎は、明治十二年、松平神社(現真田神社)創建にあたり本丸南側の土地を神社用として寄付、ついで明治二十六年には、残りの土地を遊園地用として寄付した。これが上田城跡の公園化への第一歩となった。
 現在三の丸地域は改変しているが、本丸・二の丸には土塁、堀跡などがあり、かつ本丸の三基の隅櫓は昔の姿を止めている。

上田城城跡案内板より

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資料  

私見
秋と水堀、というところでしょうか。 奥にある隅櫓  上田城への道は迷うことないと思いますが、当日は車を置く場所に迷いました。というのもその日は上田城址公園内への車の立ち入りを制限していたのです。何かのイベントのようで、それ関連以外の一般の車ははいることができません。しかたがないのでしばらく考えた末近くの公共施設の駐車場をお借り(笑)することにしました。
 正面から入城すると左右にはそれぞれ隅櫓が復元されています。また左手はかなりの断崖になっています。気がつきませんでしたが、この上田城は高い場所に建てられていたんですね。
 城地内は主に真田神社となっており、宮司さんもお御籤等を販売されています。(笑)しかしやはりここは城跡。きっちりと遺構も残されています。真田石、真田井戸など。またよく観光地に見られるベニヤ板等でつくられて、顔を出すといった記念撮影でつかわれるものもありました。しかしここにおいてあるのはベニヤに丸い穴が六つ開けられて、そこを潜りぬけたらいいことがあるんだそうです。まさかこんなもん子供でも潜らないだろうと思った瞬間、若い女性が迷いなく潜っているのを見て感動してしまいました。(爆)
 神社の奥にはさらにもう1基隅櫓があります。実体がただの神社であるこの城跡、しかし相当力を入れて復興させているのがよくわかります。
 また、上田城跡は今の季節にはもってこいのロケーションでした。紅葉やイチョウが綺麗に色づいています。あちこちで高そうなカメラを構えて真剣に写真をとっているおじさんが何人もいました。  かつては徳川の大軍を二度も撃退した名城であったほどの堅牢さは感じられませんが、今の世でも十分名城には違いないですね。
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