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上田城

上田城跡


登城日:(2000.11.19→2011.11.21)
所在地: 上田市二の丸、上田城址公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
上田城址公園案内図 北櫓と大手門  上田城は、真田真幸によって天正十一年(1583)から築城が開始された平城である。城郭自体の規模はさほど大きくはないが、南方は千曲川の分流である尼ヶ淵に面した断崖に臨み、他の三方は城下町と河川を巧みに配して、周囲一帯を極めて堅固な防禦陣地としている。この上田城の特性は、天正十三年(1585)と慶長五年(1600)の2回にわたる徳川氏との合戦の際に遺憾なく発揮され、真田氏と上田城の名は天下に鳴り響いたのである。
 しかし、真田氏の上田城は、関が原の合戦後に徹底的に破却され、現存する上田城の隅櫓や石垣は、寛永三〜五年(1626〜28)にかけて、仙石忠政によって新たに築き直されたものである。
 仙石氏による上田城再築は、忠政の病死により中絶し、堀や石垣などの普請(土木工事)は完成したものの、櫓や城門を建てる作事(建築工事)は本丸のみの未完成に終わった。本丸には天守は建てられず、7棟の二層隅櫓と2棟の櫓門が建てられたことが、絵図などの記録と発掘調査によって確認されている。上田城は仙石氏の後、松平氏によって受け継がれ明治維新を迎えた。
 現存する3棟の隅櫓のうち、本丸西虎口(城郭の出入り口)に建つ1棟(西櫓)は、寛永期の建造当初からのものであるが、本丸東虎口の2棟(西櫓・北櫓)は、明治初期に民間に払い下げられ、市内に移築されていたものを市民の寄付により買い戻し、昭和十八〜二十四年にかけて現在の場所に復元したものである。これら3棟の櫓は、江戸時代初期の貴重な城郭建造物として、昭和三十四年に長野県宝に指定された。
犀川側から見上げた南櫓 上田城北櫓  3棟の構造形式はいずれも共通で、二層二階、桁行五間、梁間四間の妻入り形式である。屋根は入母屋造りで、本瓦を葺き、外廻りは白漆喰塗籠大壁で、腰下見板張り、内部は白漆喰塗りの真壁となっている。窓は白漆喰塗りの格子窓で、突き上げ板戸が付いている。
 なお、本丸東虎口櫓門と袖塀は、明治10年頃に撮影された古写真と、石垣の痕跡、発掘調査の成果などをもとに、平成六年に復元したものである。櫓門と同時に整備された本丸東虎口の土橋には、両側に武者立石段と呼ばれる石積が設けられ、本丸大手口としての格式を示している。


 上田城の歴史
 上田城は真田幸村(信繁)の父、真田昌幸によって天正十三年(1585)には、一応の完成をみたものと考えられている。
 この上田城はまもなく、天下にその名を知られるようになった。それは、この上田城に拠った真田氏が、二度にわたって徳川大軍の攻撃をうけ、見事にそれを撃退してしまったからである。
 最初の合戦は天正十三年に行われた。攻め寄せた徳川勢は七千人余、迎え撃つ真田勢は二千人弱であった。しかし、真田氏の巧妙な戦術によって、徳川軍は思わぬ大敗となり、死者を千三百人余も出した。これに対し真田方の死者は四十人ほどであったという。
内堀跡  二度目の戦いは、慶長五年(1600)の関が原の合戦に際してのものであった。関ヶ原へ向かう途中、上田へ押し寄せた徳川秀忠軍は、三万八千人という大軍。これに対し昌幸、幸村父子の率いる上田城兵はわずか二千五百人ほどであった。しかし、このときも徳川勢は上田城を攻めあぐね、この地に数日間も釘付けにされただけに終わり、関ヶ原での決戦に現われるという大失態を演ずることになる。
 上田城はいわば地方の小城であった。石垣も少なく、一見したところ要害堅固な城とも見えない。しかし実際は周囲の河川や城下町を含めた合体がきわめて優れた構造となっていたことが現在、学術的研究によって明らかになってきている。全国に数多い近世城郭のなかで、二度も合戦を経験し、しかも常にこのような輝かしい戦果をあげた城は、ほかに見ることはできない。
 上田城はその後、徳川軍の手で破却されたが、真田氏にかわって上田城に入った仙石氏によって復興された。(寛永三年、1626)この時復興された上田城は、真田氏時代そのままであったとみてよく、仙石氏の後、松平氏の世となってもほとんど変化はなかった。
 廃藩置県後、明治七年、上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となった。
 この時、本丸付近を一括して購入した丸山平八郎は、明治十二年、松平神社(現真田神社)創建にあたり本丸南側の土地を神社用として寄付、ついで明治二十六年には、残りの土地を遊園地用として寄付した。これが上田城跡の公園化への第一歩となった。
 現在三の丸地域は改変しているが、本丸・二の丸には土塁、堀跡などがあり、かつ本丸の三基の隅櫓は昔の姿を止めている。

上田城城跡案内板より

 真田井戸
真田井戸  この井戸からは、抜け穴があって城北の太郎山麓の砦に通じていた。敵に包囲されてもその抜け穴より兵糧を運び入れるにも、城兵の出入りにも不自由しなかったという。

 「真田赤備え兜」
真田赤備えの兜・・でかい  二度にわたり徳川の大軍の攻撃を退けた真田の「智勇」は天下に轟き大阪夏の陣において武具を赤で統一した「真田赤備え」部隊を率いた真田幸村公がかぶった朱色で鹿角型の兜が「赤備え兜」です。幸村公は「愛」と「義」の捨て身の活躍で「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と称されました。自ら信じる道を民とともに歩んだ真田一族の熱き「和」と「仁」の心、真田魂が宿る真田杉の切株を「赤備え兜」がお守りしています。

 長野県宝 上田城西櫓
上田城西櫓  上田城西櫓は、江戸時代初期の寛永三〜五年(1626〜1628)にかけて真田氏の後に城主となった仙石氏によって建てられ、上田城の建築当初のままに残されている唯一の建物です。
 建物の大きさは、1階が桁行9.85m(5間)、梁間7.88m(4間)の大きさで、2階は桁行8.64m、梁間6.66mと少し小さくなっています。
 外壁は、雪の多い地方で用いられる腰下見板が張られ、壁の上部から軒廻りにかけては防火のために白漆喰で柱などを塗りごめた大壁造りとなっています。また、壁に設けられている穴は、弓矢や鉄砲を撃つためのもので、長方形の弓狭間と、方形の鉄砲狭間があります。窓は縦格子の付いた突き上げ板戸です。
 建物の内部は、中央に丸太材の芯柱が立ち、仙石氏の「仙」の字の焼印が押されています。壁は柱を残して漆喰を塗った真壁造りで、幕末期に補強のために取り付けられた筋交が見られます。
 屋根は、丸瓦と平瓦で葺いた本瓦葺きで、鬼瓦には最後の城主となった松平氏の五三桐紋がついています。なお、鯱瓦は昭和3年に徴古館として改修された際に寄付されたもので、江戸時代の上田城の櫓には鯱瓦は無かったようです。
 西櫓は、上田城本丸の西虎口(出入口)を固める重要な櫓でしたが、戦争のなかった江戸時代には、もっぱら倉庫として使用されていました。また、櫓の名称も江戸時代には特になく、「西櫓」の名称は、南櫓と北櫓が復元された後につけられた新しい名称です。
 上田城西櫓は、昭和18〜24年に移築復元された南櫓、北櫓とともに、長野県内では数少ない江戸時代初期の城郭建築の貴重な遺構として、昭和34年に長野県宝に指定されました。
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私見
駅前にいる真田幸村像 城主屋敷と門  全国的に熱烈なファンが多い真田氏、そしてその縁の地として多くの方が訪れる上田城にやってきました。市街地の中にあるお城ですので、上田駅から歩いていっても約1キロ、そして手前には城主の屋敷跡もありますのでぶらぶらと散策するのもいいですね。駅を降りるとロータリーには精悍な真田幸村の騎馬像があります。大阪にあるおじさんの幸村も味わいがあっていいですが、やはり若々しい姿がここ上田では似合っていますね。
 少し歩いていくと上田高校が見えてきました。ここは上田城の三の丸であり、真田信之以降、仙石・松平と代々続いた藩主の居館として「御屋形」と呼ばれていた場所でした。現在も表門と前面の堀や土塁などが残されており、古めかしい雰囲気をたっぷりと味わうことができます。この表門は火災後の寛政二年(1790)に再建されたものですが、ここをくぐって通学する学生さんたちは羨ましいですね。
 そして上田城跡公園にやってきました。ここが上田城の二の丸と本丸があった場所となります。公園となってしまっていますが、二の丸の形状はほぼ当時の様子を伝えてくれていますので、訪れる真田ファンの皆さんはすでに頭の中にいろんな空想が広がっていることなんでしょうね(^^)。しかし目の前に残る堀や櫓など多くの城郭遺構は真田氏のものではなく、その後の元和八年(1622)に上田に入部してきた仙石忠政が寛永期に築城したものばかりなのが何とも・・・。ただ、お城全体の縄張りや構造については真田氏の頃のものを踏襲したようですね。徳川を相手取り大いにその名を上げた真田氏と上田城は、その後徹底的に破却されましたが、忠政が上田城の再築を行った際には埋められていた堀を再び堀りあげて、かつての縄張りを再現させたようです。
本陽寺にある移築玄関  忠政によって次第に城郭としての体裁を整えようとしていた上田城でしたが、忠政の病死、藩内のごたごたなどにより中途半端な状態で放置され、それは仙石氏に代わって入った松平氏の時代もあまり変わることなく近代を迎えています。特に江戸中期以降は鳥のねぐらだったとも言われるほどの荒廃ぶりだったとかも・・・。その後も遊郭に櫓を使われたりという黒歴史もあり、城としては大変つらい時期を過ごしてきたのです。今日、全国からファンが訪れる有名城となった上田城の現状を思うと、感慨深いものがあるのは私だけでしょうか。
 さてさて、城址公園を後にしますと、移築された遺構も確認していくこととします。本陽寺には一目でそれとわかる移築された藩主邸の玄関が伝わっています。市内にはこのほかにも中屋敷門、煙硝蔵、穀蔵などが個人宅などでひっそり残されているようです。全てを確認することはできませんでしたが、再訪する機会があればじっくりと散策してみたいと思います。(個人宅などへの見学や撮影は良識ある行動をお願いしますね。)
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