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椿尾上城跡


登城日:(2005.10.30)
所在地: 奈良市北椿尾町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
W郭の土塁と石垣、そして空堀。  椿尾上城は『筒井諸記』によれば元亀元年(1570)に筒井順慶が築城したとある。椿尾上城の初見は、『享禄四年記』の享禄四年(1531)であり、筒井順興によって筒井氏の本拠である筒井城と共に維持されていたようである。永禄二年(1559)に松永久秀により筒井城が落城すると、筒井順慶は椿尾上城を拠点とした。
 順慶は永禄八年(1565)から反撃に転じ、三好三人衆と結び松永方を多聞城にまで追い詰めることができたが、信長入京の前に敏速に軍門に下った久秀の勢いに抗することはできなかった。
今にも崩れ落ちそうなW郭の石垣  しかし後の辰市の合戦により松永を退け勝利を得た順慶は天正四年(1576)には大和一国を預かるようになる。椿尾上城は順慶が力を回復していくようになり、筒井城に入城するようになるにつれ、その役目を終えていったのではないだろうかと考えられている。

『日本城郭体系10』新人物往来社刊、『図説近畿中世城郭事典』城郭談話会刊参照

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資料
 

私見
奥にはえぐられたような竪堀  椿尾上城は標高528メートルの高所にありなかなか一人では躊躇してしまいそうなところにあります。名阪国道「五ヶ谷」を降り、中畑町を北へ突き出しているような国道下をくぐりぬけ、北へと林道を走っていきます。突き当たりまでいくと車を降り、そこから徒歩で15分ほどいけば城山に到着です。
 登城道は右上にV郭とU郭を見上げながら右へと曲がっていきます。二の丸と書かれた標柱(倒れてましたが)のあるあたりから右にT郭(本丸)方面、左に広大な郭が広がるW郭方面との分岐にさしかかり、しばし悩みました。悩んだといってもどちらに行こうかということじゃなくてさてどう楽しもうかということでしたが(笑)。すぐさま左に進路をとり、大きな段差となっているW郭にあがります。ここは土塁により東側(本丸方面)を除く三方が守られています。そしてその外には横堀がありさらにその外には土塁があるといったよく手の入った構造になっています。また内側の土塁には崩れてはいますが石垣も見られ、今まで土塁ばかりの山城を見てきた私には非常に新鮮で、「おおっ」とばかりにデジカメのシャッターを押し続けていました。残念なのは植林により日の光が遮断されており、光量があまりないということですね(--;。
 さて、折れのある土塁の先を目指します。それほど険しくないので切岸や郭の構造を無視して直線移動してもいいのですが、歩きやすい緩斜面や通路を選んで歩いていくとかなり歩かされるなと感じます。そしてしばらくいくと右手に大きく丸くえぐられた竪堀が見えます。反対斜面には畝状竪堀があるのですが、南側ということで草の成長が著しく確認することは非常に難しいです。
 その先は出丸のような造成の甘い郭が2つありました。W郭まわりと比較するとかなりの時代差を感じずにはいられません。すぐに引き返して北側の外周を歩きながら薄暗がりの中に見える石垣にまた何度かチャレンジしてみます。がやっぱり加工しないと使えないですね(^^;
椿尾上城本丸です。  本丸へのルートは途中に小さな石碑があり龍王社方面と本丸方面への分岐点であることを示していました。ここから40メートルほど下ると龍王社があり傍らの池には今も水を湛えているそうですね。
 本丸は堀を越えた先に赤い鳥居が立ち並ぶ社として存在していました。目だって土塁や石垣による防護設備は見かけられないのでちょっと拍子抜けの感は否めませんが、あらためて手元の縄張り図を見てみると奥の大竪堀からここまで直線で200メートルほどの距離なんだと知りました。優にその3倍は歩かされた気分です。そうとう走り回ってしまいましたがやはり「大和の三大中世山城」の一つに数えられることはありますね。
 これだけ広範囲に及んで見事な遺構が残されているのですから丁寧な案内板があってもいいんじゃないかと思うんですがどうでしょうか。ただ、小学校が立てた標柱が非常に寂しい気になりました。
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