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林野城

林野城跡


登城日:(2009.05.05)
所在地: 美作市林野
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
林野城の現在の状態 広く平坦地となっている主郭部 林野城跡  群雄割拠の鎌倉時代林野城と呼ばれ又、以後倉敷城とも呼ばれていた。向かい合う三星城の後藤一族が在城し、後に尼子勢・江見一族・宇喜多・小早川の勢力下にあったといわれている。
 しかし、慶安元年(正平十六年、1361)山名伊豆時氏が足利氏に背き、美作に侵攻の際に三星城とともにこの城も落ちたと伝えられている。
 この城山は三方を川によって遮られた馬の背状の地形をうまく利用して築かれた天然の要塞であり、城郭も立派で本丸・二の丸・三の丸と三段に活用した連郭式の豪壮な山城で標高250メートル山容の雄大なることは作東随一のものといわれている。
『林野城跡案内板』より

 林野城の築城時期については諸説あるようだが、鎌倉期からその名が見られる。康安元年(1361)七月、山名時氏による美作侵攻の際、20日余りの戦いを経て、山名方に落ちたとされる。
 下って、出雲の尼子氏によって攻め落とされた林野城は、のちに尼子氏から離反した三星城の後藤勝基との合戦があったとする記録が残っている。その後浦上氏に属する江見氏が入城するも宇喜多氏によって落城。宇喜多氏の家臣戸川秀安や岡市之丞、中島杢之助などが留め置かれた。
 関ヶ原の合戦後は、小早川秀秋の家臣、木下勝助・荻原龍助や稲葉通政などが在城したという。秀秋の没後は細野佐兵衛に預けられたのを経て、慶長中期からは森可政、可春、三信の三代が入城した。
『美作国の山城』第25回国民文化祭津山市実行委員会刊参照
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資料
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私見
尾根上に郭が続きます 土塁も確認できます  とりあえず林野城について言わせていただくとしますと、その歴史のわかりにくさ、複雑さにとっても苦労したということに尽きます。麓に置かれた案内板は訳が分からない内容ですし・・案内板の文章はわかりやすい内容と文体で是非とも作成いただきたい!と強くお願いしたいものです(手抜きしたいからとも言いますが)。しかしまぁ歴史の分りにくさというか複雑さは、位置的にも周囲勢力の脅威に常にさらされていた境のお城の宿命ということも言えるのかもしれませんね。
 さて、気を取り直して訪城です。山頂へは散策する道がついていますので山城装備がなくても比較的楽に登れてしまえました。しかし往時は急峻な崖と梶並川、吉野川とで守られた堅牢なお城であったのだろうなと思います。城の構造は尾根づたいに三の丸、二の丸、本丸と一列にならんだ郭群が連なっており、現在もそれはよく確認できる状態です。またところどころに土塁や堀切もありますが、なんでしょうか物足りなさを感じてしまいます。
 しかし山頂からの景観は素晴らしいですね。山間を抜けて進撃してくる敵の姿が遠くからでもよく見てとれそうです。
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