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院庄館跡


登城日:(2006.10.29)
所在地: 津山市神戸、作楽神社
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
がっくし?ポーズが素敵な児島高徳像  院庄館跡は、鎌倉時代から室町時代にかけての美作守護職の居館跡と推定される遺跡です。
 ここはまた『太平記』に登場する後醍醐天皇と児島高徳の伝承の地としても有名であり、明治二年には館跡の中央部に作楽神社が創建されました。
 大正時代の館跡周辺の切絵図には「御館」「御館掘り」「掘り」等の地名が見られ、当初の館の区域は現在の史跡指定地よりさらに大規模なものであったと推定されます。
 また「方八十間」といわれた広大な館跡からは、昭和四十八年から四十九年と五十五年から五十六年に行われた発掘調査によって、井戸跡、建物の柱穴等が検出されました。
 現在、館跡の東・西・北の三方には、幸いにも延長約五百メートルにわたる土塁が残っており、往時をしのばせています。

院庄館跡に建つ作楽神社 ◆にらみ合いの松
 江戸初期、美作十八万六千五百石初代の藩主として森忠政(森蘭丸の弟)がこの地に築城を考え、慶長八年(1603)春、ここに到着した。適地を物色中、藩主夫人の兄であった名護屋九右衛門と、重臣井戸宇右衛門の意見が合わず、遂に両者の果し合いとなり相打ちで二人とも死んだ。
 この事件で築城を津山の鶴山に変更、二人の墓を道路をはさんで造り、塚として松を植えた。ところが通行人に変事が続くので道を北へ移し、塚は田んぼの中となり南に井戸、北に名護屋と並び、一方が栄えると一方が弱まるところから「にらみ合いの松」と呼ばれるようになった。
 この名護屋九右衛門とは、京の四条河原で歌舞伎をはじめた出雲のお国と浮名を流した名護屋山三のこと、出雲お国が郷里に帰る途中この墓に詣でて涙したと伝えられている。

『院庄館跡案内板』より

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資料
 

私見
院庄館跡の土塁がよく残っています。 院庄館跡の土塁がよく残っています。  中国自動車道「院庄」ICを降りて、国道179号を渡りすぐに細い道へ右折しそのまま直進して作楽神社を目指します。同神社が院庄館跡です。広い駐車場も完備していますので訪城するには快適な環境ですね。
 神社境内はかなり広大なものですが、私の視線の先はもっぱら境内の内周を巡っている土塁跡です。平地においてここまで見事に残っているのは貴重ですね。特に西側のそれが高さもありわかりやすい状態です。
 そこから東へと歩いていくと児島高徳が崩れ落ちた姿勢で「がっくし」となっている像があります。珍しいポーズだと興味深く見ていました。この児島高徳は、鎌倉時代末期の元弘二年(1332)三月、隠岐へ流される途中の後醍醐天皇を奪回しようとその跡を追ったが果せず、せめて志だけでも伝えようとして天皇の宿所(作楽神社)に忍び込みます。庭の桜樹の幹を削って中国越王の勾践の故事に因んだ十字の詩を書いたといいます。『天莫空勾践 時非無笵蠡』の詩の意味は(中国の春秋戦国時代の越国の王)勾践のように、(私が)笵蠡となっていつかお救い申し上げまするぞ!! 、でしょうかね・・・(^^;。
 神社東端に伸びる土塁があるあたりは夏場は草が伸びてしまいわかりづらい状況です。こちらは冬に再度訪問しましたので土塁の微妙なうねりもばっちり見えます。それにしても児島高徳・・・庭に侵入して桜に落書きしてる暇があったらなんとかできなかったのか?と思うのは私だけでしょうか。あの像のポーズは諦め、嘆き崩れた瞬間なのか、それとも悔し涙を流しているのかいずれにせよあのポーズが忘れられません(笑)。
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