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鶴首城跡


登城日:(2006.01.09)
所在地: 高梁市成羽町下原
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
ニノ壇西側下にある井戸跡のような地形 今までの苦労が嘘のように感じられる城域  鶴首城の築城については鎌倉期の河村四郎清秀であるとする見解(「備中府志」)もあるが、南北朝期に三村家親によって築城されたと考えるのが一般的である。三村氏は当時尼子の勢力下であった備中全土を制覇するために、猿掛城の庄為資、松山城の庄高資を攻め滅ぼし、松山城に入城した。また成羽には弟の親成、親宣を配した。家親の勢いは衰えず備前・美作へも侵攻を開始した。
 やがて宇喜多直家の策により家親は命を落としてしまう。やがて備中と備前との間で激しい明禅寺合戦がはじまった。(永禄十年)大将三村元親は奮戦むなしく敗退、鶴首城にて勢力の回復を図ることとなる。やがて元亀元年(1570)に松山城を奪還するまでになったが、この三村氏に対抗するため宇喜多氏は毛利氏と手を結ぶこととなった。また天正期には東から信長の侵攻もあり、ますます三村氏は衰退の一途をたどることになる。ついに松山城落城後、三村元親は切腹。なお毛利方の手引きをした功をもって三村親成は鶴首城の城主となる。

『日本城郭体系13』新人物往来社刊参照

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資料
 

私見
一の壇脇にある石垣  鶴首城は、成羽町を見下ろす標高338メートルの頂上にありました。登城口は山崎氏御殿跡でもある成羽町美術館の南側に登り口がありますが、これは途中で道がわからなくなっていますので要注意です。また違う山にのぼってしまいそうな方角です。私は美術館南側の緩やかな登り坂を登り詰めた太鼓丸公園脇からあがっていくことにしました。少し奥まった位置にある城山にダイレクトに迫るようなアプローチです。とは言えそうそう簡単なもんじゃなかったのです。すごい傾斜でひたすら直登を続けます。はぁはぁと息を荒げつつ約30分なんとか郭に到達しました。比高で250メートルはあったんじゃないでしょうか。しんどかったですが、これが最短ルートであることは間違いないでしょうね(笑)。
南側には段差がついた郭が続きます。  日本城郭体系でも縄張り図がありますが、ちょうどニノ壇に到達したのではないでしょうか。この辺りには多くはないですが石積みも見られます。また井戸跡や虎口のような地形も見られますのでこの先にも大いに期待が膨らみます。
 二ノ壇が周囲を覆うようにして一ノ壇が存在しています。西側の斜面が一番良好に石垣が残っていました。また、北側の虎口一帯にも石垣が散乱しています。一ノ壇には案内板が3つに割れていましたが一応整えて並べておきました。
 城はここを中心に南北に長く伸びた縄張りです。南へは三ノ壇、四ノ壇、五ノ壇と段々その段差は大きくなり、その先に堀切が切られています。さらにその先には武士池があるそうなのですが、とてもそこまでいく気力と体力が残っていませんでした(^^;。
 帰りは二の丸を目指して北へ降りていきましたが、どうやらこれが本来の登城道のようです。楽に降りていけるじゃないですか!しかし途中で道が切れ、あとは潅木のトゲに何度か痛い目にあいつつ泥だらけで城を降りていきました。降りたときの安堵感はここ最近なかったほどだったのをよく覚えています。
 最初はどうなることかと思った直登の城攻めでしたが、山頂部の城域の状態の良さにすっかり忘れてしまいました。登城前に2〜3人の地元の方に山城の状況を聞きましたがどなたも登ることを奨めてくれませんでした。でもその上にある山城は私が保証します!でもその途中のことは知りませんので悪しからず。
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