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岡山城跡 登城日:(2000.01.09) 所在地: 岡山市丸の内二丁目、烏城公園 |
| 歴史 |
備前の国邑久から起った宇喜多直家が、岡山の地・石山の城にいた金光宗高を亡ぼして城郭を拡張し入城したのは天正元年(1573)の秋であった。それまでは金川の松田氏に属する小城に過ぎなかったが、直家はこの城を本拠として城下町の経営に着手し、岡山の繁栄の基礎をつくった。その子八郎秀家は、豊臣秀吉の処遇を受け、直家の遺領である備前、美作のほかに備中の内の高梁川以東をも加え、五十七万石をこえる大領主となった。 ここにおいて秀吉の意見に従い、石山の東に本丸を移して城郭の拡張整備を行い、慶長二年(1597)、三層六階の天守閣が落成するにおよんで、城普請は一段落した。これがこの地に豪壮きわまりない石垣と内堀を残す岡山城本丸であって、さらに西南の平地に二の丸、三の丸などが城域を画し、近世城下町の骨格ができあがったのである。 宇喜多秀家は、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに西軍の総大将となって出陣、一敗地に塗れて八丈島へ流された。その後二年余りで急死し、後継者がいなかったのでこの家は断絶した。そのあと姫路城主池田輝政の子、池田忠継に備前一国を与えられ岡山城に入る。以後池田氏三十一万五千石の時代が続き明治維新に及んだ。
◆月見櫓月見櫓は、岡山城本丸を構成する一二三の段の二段目に当たる中の段の北西角を固める隅櫓で、池田忠雄が岡山城主であったときの城郭整備に伴い、元和年間から寛永年間前半の時期(1620年代)の建築と判断されています。構造は、一部地下付きの塗籠造り本瓦葺き二階建てで、城外(北西)側から眺めると二層の望楼型の様相を示し、城内(南東)側から眺めると三層の層塔型の景観を呈しています。規模は、地階と一階が桁行(東西)三十二尺三寸(9.75メートル)・梁間(南北)二十六尺二寸(7.94メートル)・二階が方形で桁行・梁間とも十六尺五寸九分(5.03メートル)、棟高四十五尺四寸(13.67メートル)です。 地階は、一階床下の貯蔵場所であり、一階の床板が引上げ式の戸造りとなっていて、有事の際に一階へ通じる作りとなっています。一階は、西面に石落とし付きの唐破風造りの出格子窓、北面に石落とし付きの片流屋敷の格子窓を設けて城外側への臨戦の備えをなし、南面西寄りに入口を設けています。二階は、西面の初層屋根の妻部に千鳥破風の格子窓、西壁に引き違い窓、北面の踊場北窓に唐破風造りの武者窓、北壁に引き違い窓を設けて、一階同様に城外側への備えを厳しくしています。 その一方で、二階の城内側の東面と南面には雨戸を立ての手摺付きの縁がめぐり、内側に腰高明り障子を立てており、二階のたたずまいは、城内側が日常生活仕様となっていて、平時にも月見を始めとした眺望と小宴を催すのに格好の構造となっています。 『岡山城跡案内板』より
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| 資料 |
◆歴代城主一覧
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| 私見 |
烏城という別名をもつ岡山城。いろんな城の本には正面からの写真が多かったので縄張りまでは考えたことなかったのですが、いってみて初めてわかるってのはいいですね。旭川がうまく城域の北から東へと取り巻く形をとり、南、西面には深く、幅広の堀が防備を固めています。天守閣内で買った『あいらぶ城下町』(^^;によると、宇喜多秀家が大規模な工事を敢行し、一大水郷都市へと形成させていったようです。旭川、内堀の次に石垣に目を転じてみます。まず内下馬門跡付近にある巨石。ひとつだけでも数十トン以上は優に有るだろう巨石は、付近の犬島から採石されたそうです。そして天守をはじめとする本丸跡をぐるりととりまく石垣。旭川沿いの天守閣下あたりの石垣は、不揃いな大きさの自然石が積まれた野面積みで、宇喜多氏時代のものであることがわかりますし、又、城域西部にある月見櫓辺りの石垣は、四角い人口石が打ち込まれた打ち込みハギであることがわかります。池田氏時代のものであることが明らかです。また、さらにそのまわりにはあちこちで穴が明けられ、ところどころビニールシートで防護されているのが見えます。どうやら今も発掘調査が続いているようです。縦に1メートルほど掘られた穴に対して垂直な石垣が少しずつその全貌を露になっていくのが感じられたのは歴史が実感できて素晴らしいです。 6階建ての天守閣は中に入ってみると、すべては歴史資料館といった内容なのはよくあることなんですが、階毎にテーマが決められておりよく整理されています。又2階では「大名になれます」ということで着物に着替えさせてくれるサービスをやっています。ちょうど私がいった時にはコギャルが着物に着替えさせてもらってました。顔を真っ黒にした彼女らは、当時でも評判悪かっただろうなぁと思ってしまいました。(笑)
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