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備中高松城跡
登城日:(2000.01.09)
所在地: 岡山市高松
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
現在は公園として整備されています高松城跡 高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、天正十(1582)年の中国役の主戦場となった城跡として有名である。
城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築成された「土城」である。城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺われる。縄張りは、方形(一辺約五十メートル)の土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態である。
本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。
清水宗治の首塚がありました。 ◆中国役とは・・・
全国統一を目指した織田信長は西進を図り毛利方と対峙した。毛利方は備中境に境目七城(高松城・宮地山城・冠山城加茂城日幡城庭瀬城松島城)を築き備えた。織田軍の先鋒羽柴秀吉は、天正十年に三万の軍勢をもって同国南東部に侵攻し、境目の城を次々に攻略した。最後に、攻めあぐねていた高松城の周囲に約2.6kmの堤防を短期間(12日間)で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。籠城1ヶ月余を経て城兵が飢餓に陥ったころ、本能寺の変が起きた。秀吉は毛利との講和を急ぎ、高松城主清水宗治の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。
本丸側には明治元年に移転改葬された宗治の首塚があり、北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されている。
築堤跡は蛙が鼻に現在も一部残存している。

◆蛙が鼻築堤跡
天正十年(1582)に羽柴秀吉は、備中高松城を攻めたが、城は典型的な沼城で、地の利を生かしてその守りの固いことから、地の利を逆用して水攻めに転じた。
水攻めの築堤は、基底部二十〜二十四メートル、上幅十〜十二メートル、高さ七〜八メートルを計り、足守駅の下手まで延々と築かれた。堤は、奉行の千原九右衛門勝則の設計によって、わずか十数日で完成したと伝えられている。築堤は、現在ではほとんどが取り除かれたが、この蛙が鼻と足守駅下手に遺存する東西の両端が、往時の様相をかたっている。

『高松城跡案内板』より

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資料
 

私見
蛙が鼻築堤跡には土塁がありました。 蛙が鼻築堤跡 岡山城をあとにして、180号線をそのま松山方面に車を走らせます。目指す足守駅あたりはだだっ広い、田んぼが続く風景が広がります。ここら一帯を全て水没させた、秀吉の水攻めで有名な備中高松城はもうすぐです。
城跡へいくまえに、備中高松駅近くで180号線を右折し、細い道を走らせます。2kmほどいくと蛙が鼻築堤跡が現れます。2m弱ほどの土塁跡も一緒に残されています。この土塁をそのまま延長させていくと高松城をぐるりと遠巻きにした水濠が完成していたのでしょう。現在ではちょっと信じられないほどの土木工事ですから、当時本当にそれができていたのかなぁと率直な疑問が浮かんできます。
いよいよ高松城跡へ到着です。今では奇麗に整理された自然公園のような装いとなっています。小さな蓮池がいくつか作ってあり、当時の低湿地を表現しているような印象を受けます。地元保存会の方の手による小さな資料館がありましたがちょっと入りづらかったので見るのをやめました。しかし、その資料館の横にたてられた看板には絶句でしたよ。
「水攻め音頭」の歌詞がでかでかと掲げられている・・・しかも振り付けまであるなんて・・・。恐るべし保存会の方々。(-_-;
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