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中城城跡


登城日:(2005.07.16)
所在地: 中頭郡中城村字泊
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
三の郭の石垣 裏門であるアーチ門  この城の築城は、読谷山按司護佐丸といわれています。城の構造は、東北から西南に伸びる連郭式に築かれた城で、三の丸、二の丸、本丸は、それぞれ堅牢優美な石塁で囲まれ、石の階段と門でそれぞれの郭に通じています。とくに三の丸の城壁のように外からみえるものは五角形の石を組み合わせ、またアーチ門の回りは特に大きな切石を用い、石塁の角が丸味を帯びているものも特徴があります。
 城の規模は必ずしも大きいとはいえませんが、東南側は自然の絶壁をなし、西北側は10メートルほど低い位置で外郭の石塁が走り、城の経始には日本中世の城に似たものがあります。
 中城城は、一部修理が施されていますが、当初の遺構をほとんどそのまま残し、その技法や構造において一層の完成度を示しています。しかもこの城こそが沖縄における中央集権の確立に主要な役割を果し、中世的な戦乱の最後の築城であったことはきわめて注目すべきことです。

『中城城跡案内板』より

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資料
 

私見
木々が繁る南の郭 一の郭と主殿跡  中城城は世界遺産に指定された5つのグスクのうちの1つです。美しい城壁が遠めに見えた時点で明らかにほかのグスクとは桁違いの存在感です。お金を支払い、坂道を上り詰めた先はだだっぴろい広場があり、その先に高い石垣とアーチ門である北の裏門が見えます。北側からはなだらかな斜面がありますが、他の三方は断崖となっており天然の要害となっているんですね。

 裏門をくぐりますと、北の郭そしてその先には西の郭と続きます。左手には高い石垣が組まれており、その中に堅く護られた三の郭、二の郭、一の郭が続いています。まずは三の郭に入ります。どうも現在石垣の組みなおしをしているようです。ここはニの郭との連絡がありませんので閉ざされた空間となっています。不思議な縄張りですねぇ。
 そしてそのまま西の郭、そして表門へと出てみます。表門は唯一の楼門形式となっているようです。すなわち、門の両側に石垣が組まれその上に木の門を置いて二階造りとしているのです。

 右手に進路をとり、石段をあがっていくと南の郭です。ここには拝所がいくつかあり少し趣が違っていると感じます。また、至るところに木々が石垣の間を縫うように生え繁っており、そのせいか石垣が崩れ落ちてしまっている様相が本州の城とは明らかに違って見えます。端に寄って下を見下ろすとかなり険しい断崖です。足元から崩れ落ちはしないかとひやひやですね(^^;
 さて、象徴的なアーチ門をくぐると一の郭です。しかし残念ながら門には内側に木で補強がされています。石組みだけで維持するのは難しいのでしょうねぇ・・。
一の郭にあるアーチ門 ニの郭を見下ろす  一の郭はもっとも広い空間です。奥に建物跡らしき礎石も残っていますがここに主殿があったのでしょうね。なお、実際に昭和のはじめ頃までここに建物があったらしいです。そんな最近までですか・・。

 さらに奥のアーチ門をくぐるとニの郭があります。一の郭よりも狭いため郭内を石垣が取り囲んでいる様が一望しやすくなっています。また石垣の上には人が通れるように小径が作られており「武者走り」とか「犬走り」と言われ、見張り台の役割を果たしていたようです。

 こうしてひとしきり城内を歩いてみますと、形成されている石垣の組み方にいくつか種類があることがわかります。年代と共に修築、拡張されていったのでしょう。まずは南の郭、一の郭、ニの郭には布積みと言われた手法が使われており、四角に加工した石が地面と並行に積み上げられています。
 次に三の郭、西の郭、北の郭には乱れ積みと呼ばれる手法が使われており、石の形にあわせて積み上げられているのがわかります。また、南の郭には野面積みの石垣もあります。これらの石垣を忠実に再現するため現在も積み直しの作業が行われていますが、担当の方のご苦労が偲ばれます。(『沖縄のグスクめぐり』むぎ社刊参照)
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