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今帰仁城跡


登城日:(2005.07.16)
所在地: 国頭郡今帰仁村字今泊
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
今帰仁城の模型がありました。 平郎門。  今帰仁城の歴史は古い。神話の中で登場する「前北山」時代は、今帰仁に舞い降りたアマミキヨが「プトキヌイッピャ」と呼ばれる洞窟に住み、五人の子を産んだ。その長男が天孫氏となり、やがて今帰仁にグスクを築き大いに栄えるようになった。
 天孫氏王統は二十五代続いたが謀反によって1187年に滅んだ。
 次に「中北山」時代である。謀反の者を滅ぼし新たに中山王統を樹立させたのは源為朝の子という伝説もある尊敦こと舜天である。舜天の孫が今帰仁城に封じられ中北山王統の祖となった。舜天王系の王統が二代続いた後に跡継ぎがなくなったことにより天孫氏王統の英祖王の二男である湧川王子を養子に迎えることになった。これにより再び天孫氏系の王統に戻ることになる。
 やがて本部大主の謀反や怕尼芝(はにし)のクーデタなどによりついには滅亡してしまう(1322)。
主郭全景  そして最後に「後北山」時代が到来する。今帰仁城主の弟、勇川按司の子として生をうけている怕尼芝による新王統である。怕尼芝は積極的に明国と交易を拡大し、徐々に力を蓄えていった。最も勢いを得たのが三代目王の攀安知(はんあち)であった。しかしその時中山では巴志により察度王統の武寧王が滅ぼされており、思紹・巴志父子による中山王の勢力が次第に強くなっていた時でもあった。やがて1416年今帰仁城に攻め寄せた中山軍は壮絶な戦いの末、今帰仁城落城という結末を迎える。以後は中山王の支配下に置かれた今帰仁城は尚巴志の二男、尚忠を北山監守としてその任についた。

『沖縄のグスクめぐり』むぎ社刊参照

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資料
 

私見
主郭内にある火の神らしいです  今帰仁城は近所に有名な水族館「沖縄美ら海水族館」ができたこともあり観光客が訪れる機会も増えたようです。8時から入場券売り場が開くとともにチケットを購入し、城へと向かいます。(実はその前に無料で入ることもできたのに、と小耳に挟んだのでしたが・・(^^;・・聞かなかったことにしましょう)
 城跡には違和感のある鳥居をくぐりぬけ、平郎門前で立ち止まります。左右に大きく広がる城壁を前にして「いざ」と気合を入れるためです。城壁の石垣は、古期石灰岩(本部石灰岩)を使い、平積みにされています。たいていのグスクが琉球石灰岩を使っているのに対して大変貴重で久米島の具志川グスクなど数ヶ所程度でしか見られないんだそうです。
壮大な城壁美を堪能できます。 壮大な城壁美を堪能できます。  グスクの中に足を踏み込みます。さて縄張りですが少し複雑です。全体にはうねうねと城壁が曲線を描きながら、それぞれの郭を区切っているように見えます。主郭を中心として大小9つの郭があり、本丸、志慶真門(シジマジョウ)、大庭(ウミヤァ)、御内原(ウゥチバル)、大隈(ウゥシミ)、カーザフ、南殿跡、北殿跡などと呼ばれています。うう・・・覚えられません(;_;)。平郎門からまっすぐに伸びた石段をあがっていくにつれ、全貌が少しずつ視界にうつるようになってきます。振り返りながらゆっくりに歩みを進めます。早朝からやってきた甲斐があったと実感できる瞬間です。見渡す限りの城壁を独り占めしているような感覚を味わえるのですから。
 城内はあちこちで発掘調査が行われたんだなとわかる状態で、主郭を中心に綺麗に整備されています。長い年月をかけて少しずつ拡張されていった様子がよくわかるよう案内板が置かれているのがありがたいですね。それにしてもこんなに立派なグスクが落城していたなんて信じがたいですが、相当激しい戦闘が繰り広げられたんでしょうね。美しいと映っていた城壁がなんだか少し哀しい気もしました。
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