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岡城跡


登城日:(2005.03.20)
所在地: 竹田市大字竹田
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
石垣に圧倒されます。  史跡岡城跡は、大野川の支流である稲葉川を北に、白滝川を南に臨む、標高325メートルの阿蘇溶結凝灰岩で形成された台地の上に築かれている。両河川は台地の先端部で合流し、天然の濠の役目を果たし、河川の内側は切り立った断崖絶壁になって、深い谷に取り囲まれている。
 現存する岡城跡は、文禄三年(1594)中川氏が播州(兵庫県)三木から入部して普請されたものである。城の造営は、初代藩主中川秀成により始められ、天神山を本丸とし、以前の大手であった下原口を搦手に、西南側に大手口を、北西側に新たに近戸口を切り開き、三つの門が出入り口となった。城の曲輪は、東から御廟の曲輪、東西の中仕切の間に本丸・二の丸・三の丸の曲輪、さらに西側に西の丸の曲輪が設けられた。
 西の丸は、寛文四年(1664)に、三代藩主中川久清により隠居所として、御殿の普請が完成している。
 石垣の普請は、石垣職人として有名な穴太衆と思われる「穴太伊豆」が大阪から呼び寄せられ工事にあたっている。その後、度重なる地震や風水害により城内各所が破損し、その都度石垣の修復が行われ、積み直した跡が今も見ることができる。
 明和八年(1771)には城下町より出火した火が城内に移り、西の丸をはじめ、本丸・二の丸・三の丸・御廟・下原まで類焼して城内のほとんどの曲輪が焼失した。再建は、火災以前の幕舎の構成を基本的には踏襲して行われた。現在史跡内には、主要曲輪だけでなく近世城郭における各建物の遺構が残されている。

石垣に圧倒されます。  岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられるが、惟栄は大物浦(兵庫県)を出航しようとして捕らえられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流された。
 建武のころ豊後国守護大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令をうけ、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝なかばの応安二年(1369)から後で、その城はきむれの城であった。のちに志賀氏の居城は岡城に移った。
 天正十四年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城をおそい、わずか十八歳の志賀親次(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄二年(1593)豊後大友義統が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。
 文禄三年(1594)二月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成(ひでしげ)が総勢四千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし、急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸は、慶長元年(1597)に完成、寛文三年(1662)には西の丸御殿がつくられ、城の中心部分とされていった。
 明治二年(1869)版籍奉還後の四年(1871)には、十四代・二七七年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は七年(1874)大分県による入札・払い下げですべてが取り壊された。
 瀧廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治三十四年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。

『岡城跡案内板』より

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資料
 

私見
石垣に圧倒されます。  岡城は天正14〜15年の間、3回に及ぶ島津軍3万の攻撃を全て防ぎきったまさに難攻不落の城です。現在もその様相は色濃く残っていました。
 駐車場に車を停めた時は観光地化されてしまっているのかな?と少し落胆したのですが、すぐにその不安もなくなってしまいました。大手門跡を過ぎ、石段を見上げた時から一瞬でその壮大なスケールに飲み込まれてしまっています。
 朱印倉跡、家老屋敷跡の脇を通り本丸へのルートはまっすぐ平坦な道を歩くだけですのでお年寄りも多く観光に訪れています。が、この岡城は石垣だけに目を奪われていると見落としがちな実に見事な天険とそれを利用した縄張りの妙にもため息が出ます。おそらく現在残る石垣の多くは江戸時代に入ってから修復されたものなんだとは思いますので、島津軍の攻め寄せた際にはこの天険の利を利用したんでしょう。 白滝川と稲葉川とが天然の水堀となし、本丸、二の丸あたりはほぼ垂直に近い急崖となっており大軍で攻め寄せるのはかなり難しい構造になっています。天正の頃の姿は想像でしかありませんが、その想像がわくわくしてくるのは名城の醍醐味なんでしょうね(^-^)
 桜の馬場跡から先は三の丸ですが、西中仕切と呼ばれる虎口となっているようで鐘櫓が配されていました。そして目の前の本丸には高い石垣が聳えており直接うかがうことはできませんので二の丸を経由します。二の丸の突き出た部分に瀧廉太郎氏の銅像がありますが、個人的には「うーん・・・・」とコメントしづらいものがあります。(^^;
 本丸からは周囲がすべて見渡せる絶好のロケーションなのですが、その先にもかなり広大な縄張りが続いていますのは驚きです。また、ここに御三階櫓と呼ばれる天守があったのですが、さぞかし絶景だったことでしょうね。西へと二股のように分かれた峯上には西の丸御殿や家老屋敷が広がるのですが、そちらにも同様に石垣がこれでもかと言わんばかりに使われていたのには驚嘆でした。
 でも正直感動が思った以上に少ないのは天気が悪くていい写真が撮れなかったのと、訪問直後に福岡地震が発生して余韻を楽しむ余裕がなかったからなんでしょうか。またいつか天気のいい日にゆっくり訪れてみたいところです。
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