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大阪城跡
登城日:(2008.10.25)
所在地: 大阪市中央区大阪城1番1号
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
大阪城に現存する乾櫓 大阪城に現存する千貫櫓 ◆青屋門
 大坂城の非常口とも言うべき門で、徳川時代の元和六年(1620)頃創建され、算盤橋と称する引橋(押出し、引入れ自在の装置)が架かっていた。この門は、昭和二十年(1945)8月に大空襲の被害にあい大破したが、昭和四十五年(1970)に大阪市が残材をもって現状のものに復元した。青屋門の名称の由来は大坂本願寺時代、この門外付近に青屋町があったことによるものと推定されている。

◆大手門枡形の巨石
 大手門枡形は、大坂城の正門の防御施設として、特に立派な石垣で築かれている。大手門正面の見付石は表面積およそ29畳敷(48u)、推定重量108トンもあり城内第四位の巨石である。また、左手の巨石はおよそ23畳敷(38u)、85トンで第五位にあたる。これらの巨石はいずれも、豊臣時代のものではなく、徳川時代の大坂城再築の時に、瀬戸内海の島々から運ばれてきたものである。担当大名は、最初は熊本藩主加藤忠広でのちに久留米藩主有馬豊氏が築き直した。

大阪城内で最大規模を誇る蛸石 ◆千貫櫓
 大阪城の大手口を守る重要な隅櫓の一つで、元和六年(1620)に創建されたもので、昭和三十六年(1961)の解体修理の際、土台の木材から「元和六年九月十三日御柱立つ」の墨書が見つかり、この建物の棟上げ式の日がはっきりした。現存の城内古建築物の中で乾櫓とともに最も古いものである。名称の由来については織田信長軍の石山本願寺攻めの時、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、あの櫓さえ落とせるなら銭千貫文与えても惜しくはないと話し合ったというエピソードが伝えられている。

構造形式:ニ重二階本瓦葺
面積:一階199u  二階143.32u  延342.32u
昭和三十六年解体修理

◆太鼓櫓跡
 ここは、もと二の丸南部への出入口にあたり、左右の石垣の間に南仕切門と呼ばれる城門があった。右側の石垣の上に、太鼓を蔵する小さな二層櫓があり太鼓櫓とよばれていた。創建は寛永五年(1628)である。この太鼓は平時には時刻を知らせ、戦時には将士の召集や出陣の合図に打ち鳴らされた。明治元年(1868)の城中大火で焼失した。

◆六番櫓
 二の丸南側を固める隅櫓の一つである六番櫓は一番櫓と構造形式がほとんど等しく濠側に石落しを2ヶ所設け窓腰狭間、石狭間も多く開いて堅固な構えをなし、窓の内側には障子を建てて内室も画し、居住構えが完備している。創建は寛永五年(1628)で、天保年間(1830年代)に大修理を経て今に残ったものである。

構造形式:二重二階本瓦葺
面積:一階217.21平方メートル  二階138.68u  延355.89u
昭和四十一年解体修理

大阪城天守閣 大阪城といえば高石垣と水堀でしょう ◆桜門
 豊臣時代にも本丸の正門は桜門と呼ばれていた。桜の馬場という地名も知られている。おそらくこの付近に桜の並木があったと思われる。桜門は、徳川時代の本丸再築の寛永三年(1626)に築かれたが、明治維新の城中大火(1868)で焼失した。現在のものはその後明治二十年(1887)に再築されたものである。なお、門の両側の塀は明治維新のとき焼失したままになっていたものを、昭和四十四年(1969)の桜門修理の際、復元されたものである。

構造形式:高麗門本瓦葺、柱真々5.15m
昭和四十四年解体修理

◆桜門枡形の巨石
 本丸の正門を守る重要な枡形で、特に立派な巨石が用いられている。桜門枡形にも大手口と同様、多聞櫓があったが、明治元年(1868)の城中大火の際に焼失してしまった。この桝形の築造は寛永元年(1624)岡山藩主池田忠雄(姫路の池田輝政の三男)が担当したもので、備前(岡山県)産の良質花崗岩が用いられている。正面の石は蛸石と呼ばれる城内第一位の巨石で、およそ36畳敷(60u)推定重量130トンもあり、左側のは振袖石といい、およそ33畳敷(54u)120トンで城内第三位の巨石である。
  大阪城乾櫓内です。  L字状の大阪城乾櫓  普段は非公開な大阪城焔硝蔵 焔硝蔵内部 普段は非公開な御金蔵 御金蔵内部。厳重な作りです。

『大阪城跡案内板』より

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資料 【地図を表示する】
 

私見
きらびやかな天守閣 西の丸庭園からの大阪城天守もビュースポットの1つです  ようやく大阪城にやってきました。めずらしく電車での城攻めです。車で来にくいってのがここに来なかった大きな要因です。
 JR環状線大阪城公園駅で降りると、大阪城ホール脇を抜け、青屋門を通ります。濠に使われている石垣にいくつか紋が入れられているのが確認できます。このあたりの石垣は不ぞろいな石で積みこんであることから江戸時代以前のものなんでしょうか。復元された青屋門を通りすぎ右折してすぐに極楽橋を渡ります。まずは天守閣へ、といった攻め方ですね。まわりに数十台の観光バスがとまっており、予想以上の観光地ぶりに驚きです。極楽橋をわたるとそこはもう本丸内部なのですが、本丸だけで他の城地ほどの大きさですね。枡形があり、天守があるのはさらに奥です。
 でも不思議なことに本丸内で似顔絵を書いてくれるおじさんが商売しています。3分500円で似顔絵を書いてくれるのか、安いな。という周りの声が聞こえてきたのですが、違うでしょ。そんなところで商売していいんだろうか・・・(笑)。
 さて天守の下にやってきました。天気がよく日の光を反射させて、遠くから見えていた以上にきらびやかな天守です。派手すぎて私はちょっと嫌いですね(笑)。大千鳥破風が縦に二つあり、それぞれに金シャチがのっています。また側面も同様に金シャチが輝いています。名古屋城みたいに途中までエレベータでいけるようになっていましたが、今日は動いてないようです。
 最上階は岐阜城を思わせるような望楼型のつくりです。たしか内部は近代的な博物館だったと思いましたので中にまで入るのはやめときました。まぁそれに人も多かったですしね。大阪城って言えばこの天守閣のことを想像する人が多いんでしょうけど、ちょっとこれは私にはいただけません。さっさと元来た道を戻って極楽橋をわたり、左折します。まわりの櫓を一通り見てこようというコースです。
乾櫓内部に掛けられている懸魚はまるでショッカーの基地のよう(笑)  最初は焔硝櫓です。がこれは門が閉められていて拝観できませんでした。なので京橋門から出て、西堀の外を歩きつつ乾櫓、千貫櫓を遠めに見ます。これらは共に江戸時代の建造物で空襲や、大火事に耐えた建物です。きらびやかさはないものの不思議と落ちつきを感じさせてくれます。やはり城はこうでないといけませんね。
 大手門から入城し、多聞櫓、六番櫓を見ていきます。六番櫓横、修道館の手前にすごいものを発見しました。石山本願寺跡推定地という石碑が建てられています。感動しました。そうかこの辺がそうなのか・・と見渡したものの何もありませんがそんなことは関係ありません。石碑があるだけでいいのです。私個人的には1粒で2度おいしい、って感じな城攻めになりました。
 豊国神社を抜け、一番櫓を見て、二の丸を出ます。そして梅林へはいりかけたところに大きな石柱碑があります。脇にある案内板にはまたしても本願寺の説明が!そしてよく見ると顕如上人の供養碑がたてられています。ここでも推定地となっているようです。うーーん、さっきのとはだいぶ離れてるけど・・まぁ本願寺自体大阪城の母体となるほどの大規模なもんだったはずだし・・まぁいいでしょう。これらの説明は別途石山本願寺跡にて説明しましょう。(笑)
 ってことで珍しく長文になりましたが、すっかり大阪城を堪能して帰路につきました。
 あ、大阪城の歴史を書くのを忘れてる!ま、いっか知ってるでしょ(笑)。
大阪城の鬼門除けとなっているらしい人面石  大阪城は行きやすいこともあり、何かあったらふらぁっと訪問しています。非公開されている櫓も時々公開している時を狙って行っておりましたのでかなり写真が貯まってきました。そこで今回写真を差し替えて一新してみました。小さいですが中段に並んでいるのは乾櫓、焔硝蔵、御金蔵です。最近では”人面石”を撮りに行っていました。本丸の北東、鬼門になる方角の石垣の中に小さくて丸い石が埋め込まれています。それがそうだとわかっていてもなかなか見つけにくい”人面石”ですが、以前はもっとくっきりと人の顔らしき模様が見えていたといいます。苦しげな表情だったのでしょうか、それともすべてを達観した悟りの表情だったのでしょうか。今となってはわかりませんが、それがまた想像する楽しさがあり、大阪城の深みを感じずにはいられませんでした。
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