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三箇城跡
登城日:(2003.11.17)
所在地: 大東市三箇5丁目、三箇菅原神社
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
菅原神社脇にある三箇城址碑  三箇城の築城時期は不明である。池に浮かぶ島にあったものとして推定されている。十六世紀には飯盛山城の西方、河内平野の正面に対する支城とされていた。
 のち白井氏の城となるが、白井氏はキリシタンであったために秀吉によって教会とともに廃城となる。
◆菅原神社(三箇)
 祭神は天満大自在天神の称号を授与された菅原道真公である。大祭は十月十九・二十日、社地内には稲荷社が鎮座する。天神さんもお稲荷さんも、稲作を中心とする五穀豊穣の神である。
 住道地区の氏神で、延宝七年(1679)三箇村検地帳には氏神天満宮と記され、境内地十八歩の年貢が免除されていた。また江戸中期頃の当社は梁間五尺五寸・桁行一間二尺の社殿を持ち、西の隣接地には曹洞宗宇治興聖寺末、水月院があった。現在も基石が残存し、江戸時代の神仏習合の面影を残している。
 社宝として神刀がまつられている。これは神威の高揚を願って、宝永年間の氏子たちが奉献したものである。相州綱廣の銘あり。往時の秋祭には西の口、江の口南、江の口北、大箇、下野、押廻しからの地車(ダンジリ)計六台が引き出され社頭に並んだ。この宮入りの順番は、十八目くじ引きで決められる。
 また当地は十六世紀半ば頃飯盛山の支城三箇城のあったところとされる。城主三箇殿は永禄五年キリシタンとなりサンチョと称す。この時以来三箇の名は異国文書に登場する。城の位置については諸説あって断定し難い。なお、水月院跡には「城は灰、埋は土となるものを、何を此代に思い残さん」の辞世句を記す墓石も見いだされる。

『菅原神社案内板』より

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資料
 

私見
菅原神社脇にある三箇城址碑  JR学研都市線「野崎」駅を降り、野崎城とは逆の方向に歩いていきます。15分くらいでしょうか。民家の中にたつ三箇菅原神社に到着します。神社脇には小さな城址碑が建てられています。が、この石碑は移されてきたものですのでこの神社との関連はなさそうです。
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