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水ヶ江城

水ヶ江城跡


登城日:(2007.10.14)
所在地: 佐賀市水ヶ江町5、中の館町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
公園の中に立派な龍造寺隆信誕生碑  現在の佐賀城の南東部槇村と呼ばれるところに水ヶ江城が存在していた。龍造寺康家が村中城を二男の家和に譲った際、水ヶ江館に隠居したが、康家が没後は第六子の家兼が引き継いだ。やがて家兼が拡張させ城としての整備がなされたようで、西館の二館と中館・東館・本館の五館に分かれ、周を濠で囲まれる構造であった。
 天文十三年、家兼は少弐冬尚の命を受け、島原半島の有馬氏を攻撃したが逆に敗退、水ヶ江城を囲まれることとなる。城は少弐氏の謀略により開城、家兼は鍋島清久を頼っていった。水ヶ江城は小田政光が入城していたが、家兼は一気に奪還してしまう。やがて曾孫の円月を還俗させ、水ヶ江城を孫鑑兼に譲り翌年九十三歳で没した。
 円月は隆信と名乗り、本家村中城の龍造寺胤栄と共に少弐氏の勢力を攻め込んでいった。やがて胤栄の病死により隆信が村中城を相続し、龍造寺氏の当主となった。
 しかしこの時水ヶ江城にいた鑑兼を推す一派に負け、隆信は筑後に追放されてしまう。その二年後に返り咲いた隆信は弟長信を水ヶ江城を入れ、代々子孫が受け継ぐこととなる。
 鍋島直茂の代になって乾亨院・玉峰軒・聴松軒・泰陽軒の四寺を建てた。

『日本城郭体系』新人物往来社刊参照

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資料
 

私見
水ヶ江城跡に残る乾亨院  佐賀城のついでに水ヶ江城跡あたりを散策してみました。水路と細い路地が入り組んだ様子は少しは名残りなのでしょうか。改めて水ヶ江城の歴史を調べてみて、こんなに長い歴史があったのかと驚きましたが、それに反して現地は隆信の誕生碑と乾亨院が残るだけだったのはがっかりでした。すでに宅地化されてしまったこのあたりはかつての争いを感じさせるものはないのでしょうね。子供達が元気に走り回っていました。「写真撮って〜」って・・(^^;
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