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吉野ヶ里遺跡

吉野ヶ里遺跡


登城日:(2007.10.14)
所在地: 佐賀県神埼市神埼町鶴、吉野ヶ里歴史公園
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
当時の様子がよく復元された吉野ヶ里遺跡 土塁、壕、そして逆茂木 ◆逆茂木(乱杭)
 米作りが盛んになるにつれて、水や土地を奪い合う争いが起こるようになりました。人々は自分たちの集落を守るため、集落の入口など特に重要な区域には、とがった木の枝や幹でバリケードを築き、より厳重に守っていました。これを逆茂木と呼んでいます。

◆北内郭・北墳丘墓・中のムラ
 環壕集落の最も北にあるこの地域は、吉野ヶ里の「国」の、まつりごと(祭りや政治)の中心であったと考えられます。
 北に歴代の王の墓があり、その南にまつりごとを行う北内郭、北内郭の西側に特別な倉庫群と北内郭の行事を補佐する人達が住む、中のムラがあります。

◆主祭殿
 吉野ヶ里のまつりごとを司る最重要施設です。ここでは指導者たちが重要な事柄を話し合ったり、最高司祭者が祖先の霊に祈りを捧げる儀式などが執り行われていたようです。発掘調査の成果や古代中国の事例などを参考に高さ16.5mで復元しています。
南内郭中央 復元された甕棺墓。成人サイズ? ◆甕棺墓列
 甕棺とは棺おけのことで、弥生時代の北部九州だけに見られる特色的なものです。吉野ヶ里では、長さ600メートルにもわたって2列に埋葬された甕棺墓列をはじめ、丘陵の各所にたくさんの墓地が設けられています。

◆南内郭
 南内郭は吉野ヶ里の「国」の「大人」たちが暮らしながら、「国」の政治を執りおこなっていた場所と考えられています。要所に物見櫓があり、広場を中心に「王」や「大人」の竪穴住居や煮炊屋、集会の館があります。「大人」たちの中で最高の権力者が「王」と考えられています。

◆南の「守り」
 南内郭の南側の「守り」は、兵士が待機します。また、中に入れない人々が待っています。門には正門と脇門があり、正門は監視を厳重にするために櫓門になっています。

『吉野ヶ里遺跡案内板』より

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資料
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私見
内壕の出っ張り内部には物見櫓があります。横矢? 鉤状の構造で内部が見えなくなっている北内郭の門  吉野ヶ里遺跡の名は随分と前からニュース等で知っていましたが、まさか自分が訪れることになるとは思ってもみませんでした。そんな私がここを訪れたのは『日本100名城』に選ばれているからなんですね。
 吉野ヶ里遺跡のある吉野ヶ里歴史公園は神埼市神埼町と神埼郡吉野ヶ里町とにまたがった非常に大きな公園となっていました。 やはりどのあたりが100名城なのかをじっくり見ないと(^^;ってことで一通り見て回ることにします。といってもあと1時間で閉園という時間。かなり慌しい訪問となりました。
 入場ゲートをくぐり、いきなり視界に入ってきたのは、土塁の上に城柵がありその外側に壕があり逆茂木があるという非常に美しく(^^;整備された環壕集落でした。遺跡の南東部にあたるこのあたりは弥生時代でも前期にあたる遺構のようでさらに奥に見えているような建物はないようですね。
 そして右へと進路をとると壕跡を過ぎて、南内郭へ。こことその北に見えている北内郭が遺跡内でも中心的な遺構であるようです。発掘した結果からは弥生時代全体を通じて利用されてきたところのようで、次第に大規模な環壕集落へと発展していった「ムラ」から「クニ」への転換期を見てきたところなんですね。
 南内郭には内壕があり、部分的に突出している内側に物見櫓が復元されています。弥生時代の頃からすでにこのような形態が存在していたんですね。やっぱりこうやって遺跡全体で復元していただけていると集落全体の状況が見渡せていいですねぇ。非常に理解しやすいです。
 ここは吉野ヶ里遺跡の中でも政治を執り行った者がいたということで、さしずめ主郭といったところですね。その西側から北へと伸びている大きな外壕跡も見事なものです。たださらにその西にあたる外側にもムラが存在していたというのですから、いわゆる中世の総構えといわれる外郭線がこの外壕にあたるんだとしたらなぜその外に建物があるのかちょっと合点がいきませんでした。ひょっとして時代が違うのかも?
北内郭中央部に復元された主祭殿 北内郭の土塁断面とコの字状に突出した部分  さて、歩みはさらに北へと進み、北内郭へとやってきました。ここは全体図をみてもわかりますが二重に壕を有している非常に堅牢なつくりとなっています。また現在の復元では南北に通路がありますが、かつては南側にしかなかったようで、その入り口がまた面白い構造です。二重になった壕の外側の切れ目となった入り口とその内側の入り口との位置にずれがあり、さらに二つの壕の中間になる空間には侵入できないよう板塀がつくられていたようです。つまり北内郭の中に入るには二つの入り口と板塀により鍵状の空間を通過しないといけないわけで、虎口ができあがっていたわけですね。
 北内郭の形状は、南内郭のそれよりも複雑でアルファベットのA字状になっています。突端が丸くなっており、Aの基底部と両サイドには半円、またはコの字状に突出部が作られ、それぞれ物見櫓が配されていたようです。中世の城館跡でも十分使えるんじゃないかと思える北内郭はすっかり城跡として感心しながら見ていました。(^^;
 主祭殿も復元されていますので一見ここが主郭か?とも思いましたがやはりここは古代の環壕集落です。祭祀のための行事等に使われるここに重きを置かれていたのでしょうね。
 さらに北に進むと甕棺墓が復元されており、美しいと感じつつも生々しくて「こうなってるものが出てきたのかあ」と勉強になりました。
 以上かなり駆け足での散策となりましたが、予想以上に楽しめる場所だとわかりましたので再度ゆっくりと来たいなと思いました。(『吉野ヶ里遺跡』同成社刊参照)
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