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鉢形城

鉢形城跡


登城日:(2008.11.02)
所在地: 大里郡寄居町大字鉢形
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
美しく整備された鉢形城の三の曲輪 鉢形城の外曲輪  鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和七年に国指定史跡となりました。指定面積は約24万平方メートルです。
 城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
 鉢形城は、文明八年(1476)関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田康邦に入婿した、小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在の大きさとなりました。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。
 また、鉢形城跡の周辺には、殿原小路や鍛冶小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺えます。
 天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。1ヵ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は、6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。
 開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一・日下部定好が代官となり、この地を統治しました。

◆二の曲輪の調査と堀と土塁
 二の曲輪は、平成九年度に発掘調査を実施しました。その結果、掘立柱建物跡・工房跡・土坑・溝などが検出されました。柱穴は位置の確認だけを行い、工房跡や土坑の一部、溝などを調査しました。
 工房跡は3軒確認されましたが、埋まっていた土の中の炭や鉄滓(鉄のカス)、さらに鞴の羽口(鍛冶炉の通風口)が出土していることから、鍛冶工房と判断しました。
 調査によって、現在城山稲荷神社の参道になっている土塁の他に、二の曲輪と三の曲輪を区画する堀に沿って、土塁の基礎の部分が確認されました。前者は地山を掘り残したもので、後者は盛土でつくられた土塁です。また、堀と土塁の間には、広く長い空間が確認されており、敵に攻められた際に城兵が守備につく空間と思われます。鉢形城には多くの土塁が良く残っていますが、中でも三の曲輪の土塁は、石積土塁として注目されます。
稲荷神社の境内を抜けると鉢形城の二の曲輪 往時はもっと深かったであろう堀跡  二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀の発掘調査は、平成9年度と11年度の2回にわたって実施しました。その結果、最大上幅約24メートル、深さ約12メートルの大規模な堀であることが判明しました。また、堀の底には、「畝」と呼ばれる高まりが発見されました。この「畝」は、敵兵が堀底で動き回るのを防ぐためのものであるという説と、堀底の水を一定に保つためのものという説があります。このような、畝をもつ堀を「障子堀」といい、小田原城、若槻城や深谷城などの後北条氏系城郭の特徴とされてきましたが、近年の発掘調査例では、後北条氏の時代より前から「障子堀」が用いられていたようです。
 二の曲輪の土塁は、高さが不明であることから、位置を示すことを目的に低く復元しています。また、堀は、遺構面の保護と安全対策から堀底を高くしています。

◆諏訪神社
深い堀が諏訪神社を囲んでいます。  諏訪神社は、武州日尾城主(小鹿野町)諏訪部遠江守が鉢形城の家老となって出仕したとき、信州にある諏訪神社を守護氏神として分祀奉齋しました。
 やがて天正十八年(1590)鉢形城の落城により、この近辺から北条氏の家臣たちが落ちていき、人々も少なくなりました。しかし城下の立原の人たちは鎮守様と崇敬し、館の跡を社地として今日の神社を造営したものです。
 本殿は宝暦年間、その他の建造物は天保年間に造営されていて、年に三度の大祭を中心に、人々の心のよりどころとなっています。
 なんどかの台風にあいましたが、空堀御手洗池に深い面影を落している欅の大木は、400年にわたる歴史の重みを語りかけているようでもあります。
 祭神は建御名方命、相殿に誉田別命が祀られています。これは明治42年萩和田の八幡神社が合祀されたものです。

◆虎口
 「虎口」とは、出入り口のことで、「小口」とも書きます。江戸時代塙保己一によって編纂された武家故実の書である「武家名目抄」では、『城郭陣容の尤も要会(要害)なる処を、猛虎の歯牙にたとへて虎口というなり』と説明しています。
 さんの曲輪では、伝秩父曲輪から、諏訪神社(馬出)へ至る虎口の空間を全面発掘調査しました。伝秩父曲輪は、一段高くなっており、幅2間半(約5メートル)で6段の階段が確認されました。階段の最上段には、門が確認され、東側は壊されていましたが、礎石の一部と雨だれによってできた溝が確認されましたので、間口は1間半(約3メートル)と想定しました。階段の最下段の西側には石列が一列確認され、階段を隠す「蔀」の一部と思われます。
 また、この空間は、畑になっていましたが、発掘調査の結果、畑として耕されたために、上部が削られた石積土塁が検出されました。この土塁が北向きに折れる部分は、最上位面が広くなることから、ここに「櫓(矢倉)」が建てられていた可能性があります。この「櫓」と「蔀」に挟まれた空間は、城兵が一時待機する場所である「武者溜り」と思われます。
 ここから土塁の間を通り諏訪神社(馬出)に向かう部分が虎口です。ここには、門のあった可能性が極めて高いのですが、発掘調査では確認できませんでした。柱穴が確認されなかったため礎石建ちの門であった可能性があると思われます。
 「虎口」は、防御の要であり、出撃しやすくすることで、攻撃性を高めることができるため、城郭の発達段階を良く表す部分です。後北条氏系城郭の場合には、虎口の前に更に「角馬出」を設けることが特徴です。鉢形城内には、さまざまな形態の虎口があります。

◆庭園と石積土塁
 この場所は、鉢形城跡の三の曲輪の中でも最も高いところで、平成10〜13年度に発掘調査をしました。伝承では、北条氏邦の重臣である秩父孫次郎が守った秩父曲輪といわれています。
 この曲輪は、門と土塀、土塁・堀によって区画され、その内部は大きく二つに分かれます。
 そのひとつは庭園が発見された区域で、池を囲むように建物が配置されていました。発掘調査では掘立柱建物跡が数棟確認されましたが、礎石建物も建てられていたと思われます。天目や茶入などの茶道具や、後北条氏の中核的な支城でしか発見されていないカワラケなどが出土していることから、宴会や歌会などを行う特別な空間であったと思われます。
鉢形城三の曲輪。  それに対し、庭園の区域よりも一段低い南側の空間では、囲炉裏の存在を示す自在鉤や鍋などの生活用品が出土しており、日常生活の空間と思われます。
 この曲輪の土塁は、全長約100メートル、高さは約4.2メートルで、馬踏(上幅)約6メートル、敷(下幅)約12メートルの規模をもち、鉢形城内でも最も良く残っていました。調査の結果、内側には河原石を3〜4段の階段状に積み上げていることが確認され、雁木と呼ばれる階段もつくられていました。裏込石がなく、高さも一段が1メートル程度で、いわゆる江戸時代の城の石垣とはその規模・技法等において見劣りしますが、関東地方の石積技術の有様や石積を専門とする技術者の存在を示す重要な発見となりました。
 整備事業では、鉢形城が廃城になる直前の時期を基準に、庭園と石積土塁、井戸・石組溝を復元し、2棟の掘立柱建物跡をそれぞれ四阿(あずまや)と丸太で表示しています。

◆馬出
鉢形城に残る馬出の1つ  「馬出」とは、虎口(出入り口)を守るとともに、内部の城兵の動きを悟られないようにすることで、出入りを安全かつ円滑に行うことを目的に造られた施設です。鉢形城跡には馬出と考えられる遺構が多く残っています。
 この遺構は、伝承では「御金蔵」と呼ばれていましたが、その形状や調査の結果から、「馬出」と判明したものです。西・南・東の三方を薬研堀で掘り切り、北側は荒川の崖になっています。堀の深さは、西側で約7.4メートル、内部の広さは、間口6.5メートル、奥行き12メートルで、門の礎石や雨落ちの石列、石敷き排水溝などが確認されています。
 石積土塁は、北・西・南側に築かれ、西側が最も長く、全長約17.5メートル、高さ約2.3メートル、馬踏(上幅)約2.3メートル、敷(下幅)約6.9メートルで、5段の石積みが施されています。北側は3段になっていますが、発掘調査によって、当初は5段の石積みであったことが判明しました。これほど遺構の状態が良好に残っているのは、大変貴重な数少ない例です。
 この馬出は、平面形が四角い形をしていることから「角馬出」と呼ばれ、後北条氏系城郭の特徴といわれています。

『鉢形城跡案内板』より

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資料
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私見
深沢川を渡った先にある方形郭。土塁の威圧に押しつぶされそうです。 鉢形城二の曲輪から堀越しに三の曲輪を眺める  鉢形城にやってきました。たまたま関東で城仲間と集まる機会があった際に連れてきていただけました。そうでないとなかなか行けない場所ですしね。
 鉢形城はそれほど高くはないものの、荒川と深沢川とが流れる断崖の上にあり、対岸から見ればかなりの要害であったことがうかがえます。
 まずは鉢形城歴史館を目指し、駐車場に車を停めます。そして日本100名城のスタンプを押すと中に展示されている鉢形城の模型をじっくりと目に焼き付けます(^^;。約24万平方メートルもの巨大な城域をもつこの城の構造を理解するにはうってつけのものですね。
 そして散策スタート、まずは土塁がまっすぐに延びる外曲輪からです。ここ鉢形城の現在見えている土塁や堀は、復元整備の中で遺構保護目的であったり、見やすさなどを考慮されて旧状そのまんまではないものもあるようですね。一見してその違いがわかりにくいので発掘調査報告書等を一読してから訪れたい城だと感じます。とはいえ、何も考えなくても楽しめる城跡であることは間違いないのでよしとしましょう(^-^)
 深沢川を渡り、階段をあがると大きな方形状の空間に出ました。三方を高い土塁で囲まれてあり、ここに来ただけで「すでに死んだな。」と思ってしまう堅牢ぶりです。ここを右に折れると本曲輪が、そして左に進と二の曲輪、三の曲輪へと続きます。まずは左に進路をとります。
 稲荷神社の参道を進んでいくと突然開放感たっぷりな二の曲輪を目にしますと、鉢形城の広大さを実感できますね。写真をとっても城跡なのかどうかわからない状態です。ただ稲荷神社脇にあるのは虎口でしょうか。さらに堀跡を見ると底を歩かずにはおれません(笑)。堀底には段差もありますが、1つだけ畝があったのはおそらく保護の目的で堀底を高くしたときに畝の状態を理解させるためにわざわざ1つ作っていただいたのでしょうね。こういった説明がないとどこまでが遺構かがわからなくなってこないのかなぁと不安になってきます。(^^;
延々と広がっていそうな錯覚を覚える鉢形城の城域  さらに馬出しとされるところもピンと来ないのは私が馬出しをあまり見たことがないからなのかもしれませんね。「どこまでが城なんだろう・・・」二の曲輪を見た時に驚いた広大ぶりを改めて再認識させられる光景が広がっています。ここはじっくり踏査しないといけませんねぇ。
 私が一番気に入ったのは諏訪神社あたりの堀や土塁など遺構の状態でした。それほど復元の手が入ってなさそうなのもあり、これだけでも十分嬉しい城跡ですよ。(^^;
 仕上げは三の曲輪の整備ぶりを堪能し、また荒川を見降ろす景色で休憩をとって、城を後にしました。いやぁ・・さすがは100名城ですねぇ・・・。
 って・・・!!!本曲輪を忘れていました(笑)。というか時間がなかったので泣く泣く撤退したのですが、惜しいことをしました。
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