HOMEへ  

寿能城跡
登城日:(2002.06.02)
所在地: さいたま市寿能2丁目、寿能公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史  ここは寿能城本丸の跡と伝える。寿能城は潮田出羽守資忠の居城である。資忠は岩槻白鶴城主太田資正の第四子で、母方潮田家をつぎ永禄三年(1560)ここに築城。大宮、浦和、木崎等を所領とした。城地は東西約八七ニメートル、南北約四三六メートルあり、見沼、沼沢をめぐらした要害で東方突出した小高い所を出丸と呼び今も寿能という小字名を残している。資忠は小田原の北条氏に属し、天正十八年(1590)、長子資勝とともに小田原に籠城し奮戦したが、四月十八日父子ともに討死し家臣北沢宮内等が守備した当城も同年六月豊臣勢の火にかかって落城した。墓石は資忠の没後五十年の命日、六代の子孫潮田勘右衛門資方が、弟資教にしるさせたものである。大正十五年県史跡に指定されたが、太平洋戦争中、高射砲陣地として雑木林は開墾され、谷また新市街を現出するに至り、その一部を市の小公園をして永く保存することとなった。
寿能公園となっている寿能城跡 ◆寿能公園
 寿能公園一帯は、かつて氷川神社、大宮公園から続く松林におおわれた緑豊かな地域でしたが、県営寿能住宅の造成などで松林が切り開かれ、住宅地に生まれ変わっています。
 当地は今から400年以上も昔、戦国時代の永禄三年(1580)に潮田出羽守が居城した寿能城の跡地で、北中学校付近までが城域だったといわれています。築城の30年後に豊臣秀吉の軍勢によって落城、その土塁は、周辺が住宅地化されるまで残されていました。園内はゲートボールを楽しむに格好の広場となっておりボールを打つ音がよく聞こえてきます。
 散歩コースは見沼代用水西縁に沿って続き、南は大宮第二公園、北は御獄社、土呂町の地蔵堂、市民の森、見沼グリーンセンターへと続いています。

『寿能城跡案内板』より

【戻る】

資料  

私見  寿能城があった寿能公園は現在は住宅地のなかにこじんまりとした付近の住民の憩いの場となっています。といっても私が訪れた日曜の昼間、誰もいませんでしたが。公園は北側の公園入口から2段の段差を持ち、南側の高くなった段の奥に天守台風の石台がつくられているだけです。
【戻る】