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川越城跡 登城日:(2002.06.09) 所在地: 川越市郭町二丁目 |
| 歴史 |
川越城は、関東管領の扇谷上杉持朝が関東を支配する拠点として、長禄元年(1457)太田道真・道灌に築城させた平城である。城域は、現在の初雁公園から川越高校付近へかけての一帯にわたっていたものと思われ、今でも少し注意をすれば土塁や堀の跡を見いだすことができ、県指定史跡となっている。この城は、上杉氏が六代八十一年間、次いで北条氏四代五十四年間の居城となり、戦国争乱の拠点となったが、徳川家康関東入国後は、譜代・親藩大名の居城となった。城域は、近世になってからも逐次拡張されたが、寛永十五年(1638)松平伊豆守信綱が領主となってからは急速に城郭が増築され、江戸防備の要としての役割を果たす城となった。江戸時代における城主は、酒井・堀田・松平・柳沢・秋元・松平の諸侯で太田氏の築城以来四百二十余年を経た明治四年(1871)ついに廃城となり、建物の大部分は解体撤去された。 現在ある建物は、嘉永元年(1848)、時の城主松平大和守斉典が造営したもので、大唐破風造りの玄関、大広間そして櫛形塀のみを残すだけであるが、川越藩が十七万石を有した時の建物の主要部分で、県内唯一の城郭建築の遺構として重要なものである。 ◆富士見櫓跡
御獄神社が祀られているこの高台は、かつては川越城の富士見櫓が建てられていたところである。櫓は矢倉とも書いて、合戦の際に物見として、あるいは防戦の足場として、城壁や城門の高い場所に設けられた建物を意味するが、天守閣のなかった川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に菱櫓、西南の隅に三層の富士見櫓があって、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守閣の代わりとなっていたと思われる。 今日では木々や建物のため、すっかり眺望も失われてしまったが、その昔はこの高台に立てば、富士見櫓の名の通り遠く富士山までも望めたことであろう。 元来、城の構造及び建造物は戦略上の都合もあって、その大部分が明らかにされることはなく、正確な規模はわからないが、江戸末期の慶応二年(1866)に川越城を測量した時の記録によれば、この富士見櫓は長さ八間三尺(約十五メートル)、横八間(約十四メートル)あったと記されている。 『川越城跡案内板』より
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| 資料 |
| 私見 |
小江戸、川越市にやってきました。東武東上線「川越市」駅でおり歩いて市内を散策しました。東武線界隈には見られなかった、小江戸と呼ばれるような町並みがじょじょに顔を出し始めます。と同時に観光地のなかに迷い込んでしまったという印象も受けます。この川越の町並みは出石を思い出させてくれます。やがて観光地エリアも終わり、川越城大手跡である市役所前に着きました。駅から歩くこと約20分ほどでしょうか。市役所前には太田道灌の像が向かえてくれていました。 右へ進路をとり、まっすぐ道路沿いに進んでいきますとその一帯「郭町」と呼ばれる中に入り込んでいます。その地名からもすでに城域内にいることがわかりますね。堀の発掘調査が行われています地点を右折します。すると立派な唐破風を持つ本丸御殿がありました。この御殿を写真に収めるのは午前中をお奨めします。が、今はちょうど14時。構図はなかなか決まらない逆光です。 御殿前の道を渡って、向かいにある神社へ。神社奥には土塁跡を確認することができます。そして続いて富士見櫓跡へ・・。ここは堀跡も確認できる、本丸御殿につづく立派な遺構の一つです。 市内にはそのほかにも様々な地点で小さな石碑等で往時の姿を教えてくれています。全体に意外と地味ではありますが、なかなか雰囲気もあっていいところでした。
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