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韮山城跡
登城日:(2000.08.28)
所在地: 田方郡韮山町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
三の丸の土塁 ニの丸の土塁  右前方の山を通称「龍城山」といい、ここが戦国時代の代表的な平山城という形式の城として知られる「韮山城」の跡である。韮山城の最初の築城については、明らかではないが、「北条五代記」によると、文明年間(1469〜1486)堀越公方・足利政知の家臣外山豊前守が城をつくったのが始まりとされている。その後延徳三年(1491)駿河興国寺城にいた伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が堀越御所の内部の争いにつけ込み、政知の子、茶々丸を滅ぼして伊豆の領主となり、韮山城を本格的に築城したといわれている。早雲は、この地を本拠として小田原城を奪い、後北条氏五代の基を築いた。本拠を小田原に移した北条早雲は、後に韮山に戻り永正十六年(1519)八十八歳で没するまで、三十三年間ここに住んだ。
 現在の韮山高校の校舎の付近を今も後座敷といい、早雲の居館跡であろう。小田原北条氏の西方の守りとして、韮山城は重きをなした。天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐のときは、城主北条氏規(四代氏政の弟)は、約四万の大軍に対して、三千余の将兵をもって、この城を守り通したのである。
 北条氏規が城を築いた後、徳川家康は内藤信成を城主としていたが、慶長五年(1600)移封により韮山城は廃城となった。山の高い所に本丸、次いで二の丸、権現平、三の丸、塩蔵跡や土塁、空堀、内堀などが残っている。

『韮山城跡案内板』より

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資料
 

私見
本丸の状態です。  北条の城を次々と攻略中です。韮山城は秀吉の小田原攻めの時には北条氏規が守った城なんですよねぇ。実際いってみてまさかこんな小さな山城が秀吉の四万の大軍を迎えうったとは想像できません。
 場所は韮山高校の裏手の小さな山に広がっており、車はぐるっと遠回りして江川邸駐車場に止めると、資料館を越えて韮山城へと向かいました。
 すぐに三の丸跡であったテニスコートが右手にあり、そこを90度左に曲がると権現曲輪です。土塁がよくわかる程度に残っています。さらに進むと二の丸、本丸跡と至るところに土塁が残っており、関東の山城としてはよく残っているほうなんでしょうか。西日本だとここまでよく土塁があるとたいていそれ以上に石垣が見られるのですがやはりこちらは石垣がまったくないですね。
 城をあとにして資料館に立ちよりました。入館料200円を支払うと(てっきり無料だと思ってた)、なかは周辺に点在する遺跡の発掘結果等の報告や出土品といった印象をうけます。あまり面白いものはなかったですね。  しかし、この韮山町、近くには韮山城の出城もあるし、また源頼朝が流されたという蛭が小島もあります。近くを散策するのには車はちょっと不便なので自転車があれば半日はいれそうです。
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