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駿府城

駿府城跡


登城日:(2000.8.27→2007.08.17)
所在地: 静岡市葵区駿府公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
駿府城水堀と東御門  今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は七歳から十八歳までの間、人質として駿府に暮らしました。衛禄三年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄十一年(1568)武田氏により駿府を追われました。
 徳川家康は、駿府の武田氏を天正十年(1582)に追放した後、同十三年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正十八年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関が原の戦いに勝利し、慶長八年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長十年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同十二年(1607)には大御所として三度駿府に入りました。このときに天正期の城が拡張整備され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二の丸」、「三の丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。
 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。
 また、安部川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。
高く聳える県庁ビルと東御門 ◆二の丸水路
 この水路は、本丸堀と二の丸堀をつなぐ水路で本丸堀からの水を外へ流す目的で築かれています。幅は約4.5m、江戸時代の深さは4m、長さは約95mあり、4回折れ曲がっています。
 本丸堀との接続部分は約2mありの段差を設けて本丸堀の水位を保つようになっています。また、水路両側は石垣で底の部分にも本丸側約50mにわたり石が敷かれており、底が洗い流されない非常にめずらしい構造になっています。石垣の下方は家康公築城当初の石垣と考えられ、家康公の威風を示す貴重な遺構です。

◆東御門
 東御門は、駿府城二の丸の東に位置する主要な出入口でした。
 この門は、二の丸堀(中堀)に架かる東御門はしと高麗門、櫓門、南・西の多門櫓で構成される枡形門です。東御門の前が安藤帯刀の屋敷だったことから「帯刀前御門」また、台所奉行の松下浄慶にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれ、主に重臣たちの出入口として利用されました。
 東御門は、寛永十二(1635)年に天守閣、御殿、巽櫓などと共に焼失し、同十五(1638)年に再建されました。
 復元工事は、この寛永年間の再建時の姿を目指し、復元したものです。

『駿府城跡案内板』より

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資料
 

私見
東御門枡形にある櫓門  今日も朝から城攻めです。まずはホテルから一番近い駿府城を目指します。ここは予想通り「葵博」をやってます。大河ドラマの影響で人出を見こめるのでしょうか。かなり大きなスペースでバス駐車場を確保しています。が、10時ころではまだ1台もきていませんでした。日曜なのに・・・
 さぁ、裏手側からの入城となります。土塁が大きく残っています。が、その先からはほとんど工事中のようでプレハブの壁が左右を覆い完璧に視界をふさいでしまっています。どうも日本庭園を造っているようですが、なぜ「葵博」をやっているようなこんなピークの時期にも工事中なのでしょうねぇ。(-_-;
県庁21階から見下ろした東御門と枡形  7年ぶりの駿府城でした。東京へ向かう道中、途中下車したので少し慌しい登城になりましたがそれでも開門後すぐの駿府城はほとんど人もいなくてよかったです。今回は100名城のスタンプと巽櫓を目指してやってきましたので、迷わず東御門を目指しました。そして200円を支払って巽櫓の中へ。
 ここは枡形をぐるりと上から眺められるのもいいですね。でもなかなか満足いく写真を撮れないのがもどかしかったです。櫓の中の展示物はあまり期待してませんでしたが、なかなかよかったです。竹千代の手習いの間が復元されていたり、駿府城の天守模型があったりといい目の保養をさせていただきました。
 最後にガイドさんが奨めてくださいましたので忘れずに行けた県庁ビル21階の展望フロア!ここから見下ろす東御門に感動でした。堀や櫓、枡形が小さくまとまってますのでフィギュアのように感じます。お城を上から全体を見渡したいなとよく思いますが、観光地はこうやって展望できる場所を提供するのは是非ともやっていただきたいですね。
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