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田中城跡
登城日:(2000.08.28→2006.11.11)
所在地: 藤枝市田中、西益津小学校
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 小学校脇に残る三日月堀。  戦国時代、甲斐の武田氏によって三重の堀、三日月堀(馬出し曲輪)をもつ田中城の原形が築かれ、江戸時代の初め、城主・酒井忠利の拡張工事によって四重の堀に囲まれた田中城が完成しました。
 二の堀は、本丸から二重目の堀で、幅は12.7〜21.8m、深さは2.1〜2.9mでした。この付近は、大手二之門の入り口にあたり、堀を渡るために長さ5.4m、幅3.6mの大手二之橋がかけられていました。その北西側にはかつて三日月堀がありました。

復元された田中城下屋敷 ◆田中城下屋敷
 田中城の歴史は、今から500年ほど前、この地の土豪・一色氏がその居館を拡大したのに始まるといわれています。現在、市立西益津小学校の建つ位置がかつての本丸で、城は四重の堀に囲まれた、直径約600メートルの円形をしていました。江戸時代にはここに田中藩がおかれて、志太郡・益津郡の村々を治めていました。
 この下屋敷は、六間川を挟んで田中城の南東端に接した位置にあります。ここは、一色氏やその後裔の古沢氏の居館跡だともいわれていますが、江戸時代後期には城主の別荘(下屋敷)がおかれ、築山、泉水、茶室などを設けて四季の草花を楽しみました。
 この下屋敷跡を整備するにあたり、田中城ゆかりの建築物をここに移築、復元しました。田中城にあった建物は、明治四年の廃藩置県によって民間に払い下げられ、住宅や納屋などとして利用されていましたが、永い年月の間に朽ち果て、現存するものはごくわずかです。移築された建物は、いずれも百数十年の星霜に耐えてきた貴重な文化財です。これらの文化財を保護し、後世に伝えるため、夜間は入場できませんのでご協力ください。  

『田中城跡案内板』より

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資料  

私見 本丸跡地とされる小学校。関係者立ち入り禁止です。 田中城の特徴的な縄張り。  田中城は武田氏にとって駿河の拠点となっていましたが、天正元年(1573)の信玄の死と、息子勝頼の長篠の合戦による敗退により、徳川氏の攻撃の矢面に立つようになりました。そして同十年二月二十日には、徳川軍による田中城の総攻撃が開始され、城将の依田信蕃、三枝虎吉らの奮戦空しく、落城の憂き目を見ることとなりました。その後、田中城は家康の家臣、高力清長が城主となりました。
 西益津小学校を中心に田中城は同心円状に広がる縄張りをもっています。現在は三日月堀が学校のそばに残っているだけですが、それだけでも十分当時が城地であったことがよくわかりますね。
 本丸は小学校の敷地内にあるということでしたので、なんとか入って写真でもと思いましたが、ひつこいほどの張り紙で進入禁止をうたっているのを見て諦めることにしました。
 それにしても、多いんですね。城ファンって・・・(笑)あまり迷惑をかけないようにしましょうね。
今なお残る田中城の土塁跡  約6年ぶりに田中城を再訪しました。以前と変わらない同心円状の縄張り内を歩きながら、かつての遺構を探してみます。年々宅地化が進み、消滅していっているとは聞きますがそれでも土塁跡が時折見られ、今なお往時の様子を偲ばせます。
 今回は下屋敷跡も見学しました。2階にあがると附近の城館の分布図や田中城に関する歴史が詳しく書かれたものが張り出してあり、意外と楽しめる内容です。最後は城の中心部である小学校に行きましたが、以前よりも城ファンのマナーがよくなったのか、なんだか開放されているようです。おかげで正門脇にある小さな田中城のレプリカ(?)をじっくりと見ることができました。
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